311東北被災地を行く 被災地までの道のり 各地の状況 現地で感じた事

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「311から被災地までの道のり」

震災より4ヶ月経った2011年7月下旬に三陸沿岸被災地(石巻~八戸)を訪れ、そのさいボランティアをしました

たしかにはっきりいって、大震災という内容とあって書きずらいテーマです。

自分の書いたことが世界中に発信されるウェブサイトで10年以上物書きしている以上、読み手に不快感などを与えぬよう注意を払います。

が、やはり、あまりに気を配った包まれた表現だと、現地での真実が伝わらないし、有りのままではなくなり、意味がありません。

ボランティアのさい被災地の方とお話したことがあるけど、その方は「一人でも多くの人にこの被災地に来て、見て欲しい」と仰っていました。なので事実を書きます。

現実から目をそむける無関心ではいけません。

といいつつ、かつての自分は震災の現実から目をそむけてました。

が、実際に被災地に行ったことにより考えが変わりました。

行ける余裕がある人は、ぜひ被災地に足を運んで現地の事実を見て、感じて欲しいと思います。

被災地に行った事がない人たちにも、包むことなく現場での事実や「自分が感じた事・思った事を率直に伝える事」も、ボランティアのひとつだと思っています。 なのでこの本文は、読む人にとっては不謹慎・不適切な表現もあると思います。

どうかそこのところはご容赦ください。

「311から被災地までの道のり」

3月11日の昼下がり。

本棚からは本や書類がばっさばっさと落ちている。その強い揺れが異様に長く続いている。

忘れもしない日だった。

生まれて初めて味わう震度5強の地震。2004年の中越地震のときも強い地震が長く続いたが、今回のはそれよりも長く強く、しかも震源は中越よりも離れた東北だという。

「これはとてつもなくとんでもないことになるぞ」

と悪い予感がした

そしてテレビからは、津波映像。ハルマゲドンのCGの映画ような、悪夢が現実となった、信じられないぐらいおぞましいシーン。

平凡な一日から、何の前触れも無く突然どん底に叩き落とされた一日だった。

計画停電、大混乱、放射能。

店も閉まり、電車もまともに動かず、ガソリンも手に入らない。東京に出ることさえ出来なかった。

都内に出るなら、自転車で片道6時間かけて行くしかないと思っていた。

恐怖と絶望のため、笑う事を忘れ、死んだような表情になり、震災後5日間で3kgもやせた。

それでも、自分に出来る事は何か? ボランティアか?

でも、いろんな情報を聞いているうちに、なんだかボランティアに行く気が完全に失せてしまった。私のような者がボランティアに行っても、戦場のような現場では邪魔になるのは明らかだと思った。

それどころか、無意識のうちに、震災の事はなるべく忘れよう、としている自分がいた

6月。

6月中旬からはフリーになったので、タイのスマトラ津波の被災地へ行ってみた。

プーケット島で125ccのカブをレンタルして、ツーリング感覚で現地へ行くと、被災地は見事に復興されていた。これなら6年後の三陸も復興するだろうと。

しかし、その思いは三陸の現地を見てみごとに吹き飛んでしまう。

そして、7月下旬。

被災地にもいくらかの余裕が戻ったということで、ボランティアに行く事にした。

某2:50の人じゃないが、お金がなければ、体で払おう、と思っていた。

世界一周をした冒険人として、お金を払って募金で済ませるぐらいなら(というか、その前に自分自身にお金がない(笑)

是非現場に行き労力を提供し、汗を流すほうがスッキリするだろう。人のためになるし、自分のためになる。

その後は国道45号を北上して被災地をまわりながら青森ねぶたに行く事にした。

ところが被災地に行くと、テレビやネットで見るのよりもあまりに想像を超えた被害と景色に、自分の人生観は見事にSmashされてしまった

三陸の行く先々の町で、破壊された町並み。

南三陸町、とくに陸前高田市は、街そのものが完全に消滅していた。

震災後はじめて南三陸町を訪ずれたときは、はっきりいってそこは地獄だった。

地獄。

凄惨。

悪夢。

戦争など、人間がすることには容赦することはある しかし、自然のすることに決して容赦はしない。

淘汰された311のあの日。



災害派遣等従事車両証明書

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7・22日に、その来週のために、市役所へ申請しに行った。外では昨年と変らぬ祭囃子が響いている。

待つ事30分。

これで我がジェベル200も、

災害派遣等従事車両になった

人生初の経験である

このような扱いになるとは思いもよらず

南国タイで見てきた津波の復興を胸に、さまざまなものを背負って、北へ向かう。

 各地の状況(2011年7月下旬現在)

仙台市・若林区

仙台東部道路に差し掛かったところで、海が近くなり、テレビで見たことのある、見覚えのある景色が見えた

そこは平原のようになっており、クシの歯が抜けたような松林。

今では、色とりどりのクレーンがぽつぽつと点在しており、都市部に近い事もあって復興も早そうだった

石巻市

今回の被災地で、初めて訪れた町。

三陸自動車道から石巻にきたときは、国道45号は何の変哲もなく、がんばろう石巻、東北の張り紙がやたら多いぐらいかな、というぐらいで平和そうだった。

ところが・・・・・中心街に入り、港へ下ると様子が変ってきて、そしていっきに世界が一変した

電気の付かない壊れた信号機を発見する、と同時に町並みの全体がクリーム色に変色していた

津波の濁流を浴びた痕だった。

そして石巻の漁港に着くと、いくらかの建物は破壊され、残った全ての建物の1階部分は全て壊滅。

港の道路は、「鯨大和煮」と書かれた缶詰の形をした巨大タンクが道路の中央に撤去されぬまま残ったままで何メートルものうずたかい巨大ながれき置き場からは異臭が漂う。

立ち止まると、おびただしい数のハエや、見たこともない黒い小さい虫が目の前を飛びまくっていた。

その景色は2年前に訪れたアフリカ・ナイロビのスラムを思わせた

登米市

内陸部に位置するので津波とは無縁かもしれないが、ハエが多く発生するようになり、震度6強の大地震で迫町内の街中の道路は至るところで損傷。マンホールのあたりが盛り上がり、段差も多く、そのたびに速度を落とさなくてはならない。

http://www.city.tome.miyagi.jp/bousai/syasin-higaijyokyo.html

南三陸町 志津川・歌津

登米市から丘を降りて志津川の街に出た途端、町のほとんどが破壊されていた。絶句。

まだがれきが残り、各県から来たパトカーが行き来し、よそからの見物人も。

空襲を受けたような街でも、ライフラインとなるガソリンスタンドのみ営業していた。

気仙沼市

気仙沼の駅周辺は問題なかったが、港に近い気仙沼の街中は、廃墟になっていた 残っているのは車や建物のがれきだけだった

さらに大島行きのフェリー乗り場があったあたりは、地盤沈下で海水が近くまで迫っていた。

通る車はみなドロを浴びていた。

陸前高田市

ここは自分の見た被災地の中でも、もっとも被害の激しかった町だった

南三陸では警察やボランティア、見物人の姿が見られたが、

ここ陸前高田では、がれきは撤去されたのか、全く何もない。人の姿も見られない。

見わたす限り、廃墟と化したいくつかの建物以外は本当に何もなく、原爆が落とされたような光景に、声を失う。

釜石市

夜についた釜石の街中は、ゴーストタウンだった。丘の上の住宅は電気が灯っているものの

1階部分が破壊された商店街は真っ暗。 しかし、それでも、現地の若い女の子が何事もなかったように歩いていた。

中心部のホテルとコンビニと居酒屋は営業しており、そこだけが明るかった

希望の光に見えたのは言うまでもなかった。

宮古市

上記の市に比べれば、港のあたりが被害に遭っていたが、市街地自体は平常どおりだった

田老町(宮古市田老)

度々津波被害を受けている田老。

その教訓を生かしスーパー堤防を作ったものの、今回の津波で越えて、志津川のような被害となった。

どんなに英知と労力を結集しても、自然のカタストロフィには勝てず、人類の限界を思い知らされた瞬間だった

久慈市・八戸市

津波直後は船が陸に打ち上げられたが、4ヶ月経った今では、港のごく一部を除けばほとんど被害の痕跡はみられなかった。

津波被害地の特徴

登米から南三陸町志津川にいく。丘を降りると、凄惨な被害地域が広がる。

ところがそこからR45で気仙沼方面へ北上し、丘を登っていくと、なんと何事もなかったように家々が立ち並び、そして何事もなかったかのようにコンビニも営業していたのに驚く。平和そのものだった。

しかし。また丘から降りると、再び凄惨な景色が広がる。そして丘に上がると、普通の景色が広がる。

たとえば洪水や巨大地震などで、被害地域が延々と続くのと違い、三陸の津波被災地は、めちゃくちゃになった地域と平和な地域が、文字通り波状的に交互に繰り返されていくので、それを見ているうちに自分でもわけがわからなくなり、正直、頭がおかしくなりそうだった。

現地でかんじたこと

「気仙沼で見た、心に刺さった看板」

2008年に気仙沼の港で野宿したことがあり、震災後の今回、どうなっているのか是非そこを訪れようと思ったが、できなかった。

その景色は、震災前と比べ、がらりと豹変していた。

港の端への道路は未舗装の穴だらけになっており、地盤沈下のため道路が海水をかぶっており、その先を行くのは危険そうだった。無理して行くのも現地のトラブルの元になるので断念した。

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壊滅された町並みが続くその一角で、こんな小さな看板を見つけた。

「何度でも立ち上がる」

「絶対に負けない」

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これを見た瞬間、ナイフでズタズタに刺されたぐらいの衝撃と痛みを受けた。

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この時ほど、己の軟弱さを恥じたことはなかった。

もし自分だったら、気仙沼を捨てて、すぐに別の町にうつってたかもしれない

しかもふとストレスや不満が溜まると、何度も死にたくなるときもあったが、そんな己の考えが、いかにダメで甘い考えだったか。

ところがここに古くから住む人はちがう。津波の悲しみと絶望と怒りをパワーに変えて、必死で生きようとしている。

たとえまたいつか津波が来ようとしても。

※あとになって検索して調べてみたら、「コヤマ菓子店」さんのページでした

http://koyama.shop-pro.jp/

「お金のいらない世界」

ボランティアとして物資の搬送のため、南三陸町・歌津中学校へ。

海に面した歌津の町はすでに壊滅しており、高台にある歌津中学が避難拠点となっており、校庭の隅には仮設住宅が出来ていた。 中学校ではその日、祭りをやっていた。

縁日があって、かき氷、焼きそば、いろいろあるのだがほかの縁日とちがうのは、被災者のための祭りなので、全て無料。行列が出来ている

値札を見たら、値段はスマイル0円!!!

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考えて見れば、体育館でボランティア生活しているときはお金を使わなかった。 住と食はタダだった。もちろん善意で送られてきた食料を使ってである。 お風呂がなければ、現地の人がボランティアのためにもらい湯を提供してくれる。

与える事の出来る人は惜しみなく与え、頂いた人々はそのお返しに惜しみなく与える。

近世より、貨幣すなわちお金を通じて社会が回ってきているが、被害にあいやすいこの地域では、太古の昔より被災時にはお金の領域を超えて物々交換、相互扶助、絆で今日まで生きて来た。

逆に、汚く儲けようとする人間は、ねたみも生まれてきて、どんなに所有欲を満たしたとしても、決して心が満たされる事はないんじゃないか?

「お金のために働く事の意義とはなにか?」

「そして・・・お金ってなんだろう?」

地獄のような景色が広がる下界。その丘の上にある世界が、理想郷に見えてならなかった。

「未来のジェントルマンになろう」

理想郷な話だけではなく、耳の痛い話になるが、標識も無く、がれきだけが広がる道を進み、丘の上にある保育園に着いて浴衣を届けたときの事。

保育園に着いて、みんなに浴衣を配るために、一生懸命すばやく浴衣の整理をしている最中、私の背中をけってくる子供が二人ぐらいいた。

しかも大人に対してそんなことするのは、いくら相手が被災地の子供だろうと、無礼以外の何者でもないのでムッときて

「そんな悪さをするなら、何もあげないぞ」としかった。

以前、ウガンダの超ド田舎の学校でボランティアしたことがあった。マラリアの汚染区域で水も電気もなく、物も乏しいところだったが、そこの学校の子らはアフリカらしく明るく素直に喜ぶ。でも厳しいしつけをされているため、そこの学校の子供はみんな礼儀がなっていた。

物の乏しいアフリカと違い、ここでは子供に浴衣をわたしても、心から大喜びしてくれる子はあまり見かけなかったが、受け取ったお母さん方からとても感謝されたので、「日本人の気質」と思っておこう。

この浴衣は全国から被災地の子供のことを思って送られた、無償の愛。なので、ボロボロになるまで大事に着てほしいと思う。

いくら自分がIDと腕章とベストをつけて、RQスタッフとして従事しているとはいえ、登米を離れればJOB SEEKER、つまりプータローでしかない

なのでえらそうな事はいえないのだが(笑)小さい頃からも最低限の礼儀は身に着けてほしい。未来の紳士、淑女を目指すのだ。

7月まではデリバリー関係の仕事があって(8月から終了)、デリバリー担当の人たちはつい現地の人と2~3時間も話し込んだりご馳走をいただいたりで、戻ってくるのが夜になる、という事がよくあった。

でもぼくはそれでいいとおもっている。 震災直後の緊急性を要する配達は終わっているし、宅配便のように給料もらって分刻みで勤務管理されてるわけじゃない。被災者側にもボランティア側にとって、お互いにとってかけがえのない経験なのだ

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