世界一周14 南米日本人移住地の生活 (後編)パラグアイ編

14章は、南米ブラジル、パラグアイの大地に根を張る日本人移住者の生活に
焦点を当て、日本人移住者の現実などに迫ります。

第14章 パラグアイ 続・日本人移住地編
(2000年11月22日~12月5日)

●イグアス元市長との会談
●人それぞれの人生
●高校生が話す日系移住地の現実
●必殺小田急チョップ
●イグアスの子
●パラグアイ移民生活
●首都アスンシオン

日本から遠く離れた南米大陸。その大陸のど真ん中にある、パラグアイ共和国のイグアス日本人移住地。(Colonia Yguazu)
ここでは約1000人の日本人移住者が根を下ろしている。

南米全体の日系人は約130万人といわれている。明治時代から日本人の南米移住が行われていたが、このイグアス移住地は、1961年に開拓が始まった、新しい移住地である。
そして混血が進み現地に同化しつつあるブラジルなどの移住地と違って、歴史が浅いため、現在でも日本的な生活と日本語が使われている場所でもある。

そこで私は、パラグアイ人の家庭で2週間居候させていただいた。
そこで暮らす移住者の生きざまを今号もおつたえします。

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イグアス元市長との会談

その日の夜、初日に行った食堂式レストランに入ると、アントニオさんの息子がそこの隣の家に連れてってくれた。
紹介された人は、中山さんという日本の人だったが、その人こそなんと元・イグアス市長だったのだ。

そして、今居候させていただいているアントニオさんの妻の弟が今のイグアス市長だというから、もっと驚いたのである。それだけの器のある家族だからこそ居候させていただけたのだろう。

そういえば居候中、自分は居候の身分なので、せめて掃除や洗濯を手伝おうとすると「お手伝いさん」がやってくれるのであなたはやる必要はない、といわれた。

アントニオさんの家自体は素朴な一般的な家だが、ここに来てはじめて階級社会というものを実感した。考えてみればブラジルではアメリカ的自由主義的の風土なのか、身分的や階級というものを感じなかった。が、これからの南米のスペイン語圏の国では行く先々で「階級社会」を感じることになる。

元市長宅の庭で、私と元市長との会談が始まる。外なので体にまとわりつく蚊を叩きながらの会談だった。

中山元市長は、五島列島の福江出身。このあたりはキリシタンが多く、氏自身もカソリック教徒。だから先ほどのアントニオさんの息子の洗礼を担当したことがある。

幼いころに両親とともに南米に移住。それからはパラグアイ人として生きてゆき、そして人口1万5千人のイグアスの市長になった。

10年間市長の座に着いた中山氏は、道路の補修などにも精を出した。雨になると泥沼になる道を補修、日本からの海外青年協力隊とともに活躍した、と自負していた。

市長の座を退いたあとは、JICAなどのつながりもあってか、日本で大手ゼネコンに勤務した。

中山氏は、スペイン語と日本語を自由に話すパーフェクトバイリンガルだが、前号のゆみちゃんのように、私と問題なく自然に会話できても、漢字も書けないし、日本の新聞も読むことが出来ない。少年期、第二次世界大戦中だったので肝心な時期に日本語教育が受けられなかったのである。

だからゼネコンの仕事では文章を書くときはローマ字で日本語を書いて、それを他の人が漢字やかなに変換しなければならなかった。

だから「中山さん、またローマ字ですか?」などと言われたりして日本ではとても辛い思いをしたのだという。

日本に来たときも、中山氏の家族は日本とパラグアイの国籍問題のため、入国管理の際にいろいろなトラブルがあった。あまりの不満に中山氏は「私たちは棄て子ですか!」と怒りをあらわに抗議した。
と、そのときの状況を話す元市長の顔には悔しさがにじみ出ていた。

戦後から60年代にかけて再び日本から南米への移民(南米のほかにもカリブ海諸国や、在日朝鮮人やその妻を対象とした北朝鮮なども)が再開されたが、移民政策と言われていた反面、棄民政策とも言われていた。

たとえば一部の移民説明会では「狭くて食料の乏しい日本と違って〇〇の国に行けば広い農地でなんでも作物が育つ、どこもかしこも熱帯の果物が自生してこの世の楽園さ」と夢物語を披露し、いざ実際移住するとそこは開拓不可能な魔境のジャングルだった。

移住者は絶望し、風土病にやられながらほうほうの体で逃げ出すという結果となり、時の政府の無責任だった移民政策が当時大問題になったこともあった。

移民と棄民。差別。パラグアイに永住しても、パラグアイ人からはハポネス(日本人)と呼ばれ、かといって日本に来ればガイジンにされてしまう。自分は何人なのかという定まらないアイデンテティ。そんな複雑な思いが中山氏にあったのだろう。

そんな中山元市長だが、私のような若造に対しても、おごることなくいろいろ半生を話して下さった。

私自身もこの世の社会に幻滅していたので、「もうこんな狭くるしい日本はいやだ!広い世界に飛び込むしかないんだ!」と叫んで世界に飛び出した人間なので、お互いそんな気持ちが少しは通じ合ったのかもしれない。

人それぞれの人生

中山元市長の他にも、アントニオさん一家のおかげでいろんな人に出会えた。

アントニオ家に来たママさんバレーのおばちゃんは、
「大阪から来て25年になるけど、付き合うのは移住地の日本人ばかりやから、スペイン語しゃべれへんわ」と言っていたが、そのわりには片言のスペイン語で結構家族と話をしていた。

鳥取出身の谷口氏が来たときは、近くの湖で釣ったばかりのテラピアという南米の淡水魚を刺身にしてくれた。醤油とわさびで食すと、こりこりした味わいが格別だ。

「何年か前に農業研修のため鳥取に戻ったことがあるけど、鳥取も田舎だからこのイグアス移住地とそんなに変わらないんだよね。まあ、イグアスと東京だとえらい違うけど」

アントニオ家の近くに住む川野さんの家では、18歳のハーフの娘さんがやってきた。素朴でかわいげのある女の子だ。
(なぜかハーフの女子高生との出会いが多い)

彼女から日本からのビデオを見せてくれた。テープは7年前の93年のもので、ドラマ「じゃじゃ馬ならし」とか、洋画とかマンガとか歌番組とか色々写っていたものを見せてもらった。なつかしい。

川野さんは幼い頃山梨から移住してきたが、浅黒くどっしりとした風貌は、大地に生きるパラグアイ人にそっくり。日本人でも、外国で人生を送るとその国の人々に似てくる。というか、溶け込んでしまうのだろう。

アンヘル阿部さんの家でも同じようにビデオを見せてもらった。それは世界一周前に見た見覚えのある番組だったので少し興奮した。興奮したといってももちろんAVビデオではない。

阿部さんの奥さんは高校卒業後、東京の大学に通っていたが、いくらイグアスで日本的に生活しても、いざ東京に来ると
「人が多すぎる・・・!!毎朝満員電車に詰め込まれる日々だった」
ので、初めのうちは一緒に住んでいたアルゼンチンから来た子と毎日泣いていた。

巨大都市の冷たさ、さみしさ、不安、ストレス・・・・・。
分刻みで目まぐるしくせわしなく変化する東京と、時が止まったようなのんびりしたイグアスでは環境が180度違う。同じ民族なのに、急激な環境変化に翻弄される姿は想像に難くない。

だけど私もはじめてイグアスにやってきた時は、驚きの連続だった。
「南米のど真ん中にも日本人が生活しているのだ・・」と。

高校生が話す日系移住地の現実

小さな公民館のような高校の前をジェベルで走っていると、高校生が呼んでくれた。

日本の高校とは違って実に気軽な感じだが、世界一周中のバイクで走ってるから目立つわけだし、ラジオなんかにも出ちゃったので私のことがイグアス内に知れ渡って噂になっているのかもしれない。

この高校の日本語科で学んでいる彼らは放課後、和太鼓の練習をしていた。12月に行われるイグアスの村祭り「なつぼん」への稽古である。

他にも仲間がノーへルのバイクでやってくるが、それらのバイクを見て思わず驚いてしまった。

まず一台、ブラジルホンダのCBX150は、80年代製のえらい年季の入ったバイクで、メーターは90000kmを指していた。そしてさらに古いカブや80ccのバイクもあったが、どれも本当に年季が入っている。

そんな80ccのバイクを見ていると、高校生のひとりが
「いやー、そのバイクはポイント式だから」

なんて言っていた。未だにポイント式のバイクに乗っているとは・・・
CDI点火、セルスタート、などとMFメンテナンスフリー化されたバイクがほとんどの日本から来た自分にとっては大変なShockだった。

校舎の前でテレレを回し飲みしながら高校生たちと話す。
彼らは話し方もスタイルも一世代前の農村青年、と言った感じだ。
男で髪を染めているのもいない素朴さ。
(だけど来る途中、髪をまっ金金に染めたヤンキー兄ちゃんがFZR250でイグアスの未舗装路を走っているのを見かけたので意外だったが)

「失礼なんだけど、ここで働くと給料はどれくらいもらえるの?」と訊ねてしまった。
「うーん、だいたいあそこの農協でも、月に30万か40万ガラ(グァラニー)ぐらい。」
「30万円ではなく30万ガラなんですか?」
その時食べていたホットドッグは1000ガラである。

つまり、日系農協で働いていても、月に1万円強にしかならないようだ。
パラグアイでは、日本人(日系人)は農工業や経済において神様のように評価されていると言っていた。大豆やトマトはそれまでのパラグアイにはなかった作物である。

それゆえパラグアイの中でも生活水準が高いのだが、農協などはしっかり現地人と同水準の給料を払っている。日本人だからと言って特別扱いは出来ないそうだ。

農業で成功して大豆御殿に住む人も少なくないが、そうでない人は日本へ出かせぎに行っている。

「これだけしか給料がもらえないから、好きな物や欲しい物が買いたくても買えないんですよ」
と言われた時は、やっぱりShockだった。

日本は不景気(00年当時)とはいえ、その気になれば何とか職には就けるし、パラグアイの10倍以上稼げる。買おうと思えば欲しい物も買える。まだまだ金満大国なのだ。

拭いようのない経済格差といえばそれまでだが、しかし考え方を変えれば、日本で働いた金でパラグアイに帰って事業なども起こすこともできる。

そんなどのような状況でも、いつでも楽しく前向きに生活し、死ぬ時も笑って死ねる。
それが人類共通の理想ではなかろうか。

「このイグアスは日本に比べて25年以上遅れている」と言った人もいた。
開拓当時は日本とパラグアイの経済格差はなかったが、日本の高度成長で豊かにハイテク化してしまった本国から来るとノスタルジーを感じてしまう。

だがここに住む日本人たちはみな、社会や生活に多少の不満はあっても「ストレス」は皆無だという。

本国のように、毎日忙しくせわしない「働きまくりの日本人」というイメージはここでは全くなかった。すっかりパラグアイ人となっているのだ。

「ところで、みんな日本に行ったことはあるかい?」
「先輩とかは就職や学校で日本に住んでる人が多いけど、ぼくらはまだですよ」

と、高校生は言った。きっと彼らが日本に行ったらみんな絶対びっくりするだろう。

彼らの中に、FMイグアスで司会をやっていた高校生を見つけた。映画好きな彼は、映画館がないので普段ビデオを借りて見ているのだが、

「北野武の映画はなかなかだけど、意味が不可解だね。あとはマトリックスなどの洋画はカッコいいね」
と、しみじみ話してくれた。

必殺小田急チョップ

最近ではパラグアイに移住する日本人はあまりいないのだが、FMイグアスで知り合った「酒豪男」は、何年か前に日本から移住してきたニューカマーだ。

彼は農大時代、酔った勢いで小田急線の電車の窓をぶち破ったと言う、都市伝説になっても不思議ではないほどのワイルドすぎる経験を持つ。

そんな彼と勇敢にもプロレスごっこをしたのだった・・・

酒豪男の必殺技、「小田急チョップ」をかわしたが、まもなく首を固められた!
そのときのバカ力といい、FM局でいきなりプロレスごっこをやってのける彼は、狭い日本にはふさわしくない豪快なパワーの持ち主だった。

「小田急酒豪男」によって首を固められた後、ふとロンドンを思い出した。

ロンドンにも6万人の日本人が住んでいるが、(中国人は20万人以上)同じ海外に住む日本人とはいえ、ロンドンの場合だとビジネスマンとか留学生、駐在員やその家族が主なので心なしかせわしない感じもした。

ロンドンは日照時間も短く年中気候が安定しないので、浅黒く、農作業で鍛えられたイグアスの日本人とはじつに対照的だった。

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イグアスの子

こうして、この移住地では本国では考えられない位に日本人の家で食事したり話したりできて歓迎してくださったのである。
そんな人々と出会うことも出来たのも、アントニオさん一家のおかげである。

アントニオ一家はパラグアイ人だが、パラグアイ先住民族のグアラニー族の血を受け継いでいる。パラグアイ人の97%がスペイン人とグアラニー族の混血である。

グアラニー族は温厚で従順とされており、その性格が日本人にもなじみやすいのであろう。

アントニオさんの娘、ノルマさんは陽気な女性だ。そしてその小さな孫たちがとてもかわいく、近所の子供たちと力いっぱいあそんだりした。近所のパラグアイ人家族たちとバレーボールもしたりした。

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近所のみんなが来た時はアサード(ブラジルではシェハスコ)パーティをした。なんとも豪快なBBQだった。

しかしその夜はスコールのため二時間ぐらい停電してしまう。

そんな時、ローソクを点けて、子供たちとみんなで童謡を歌ったりした。
不便な時こそみんなで楽しもうという姿勢。
本当に最高の日々だった。

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12月1日。そんな楽しい居候生活とも別れを告げる。
そしてその日は孫のアリエールの卒園式だった。

アリエールの通っていた幼稚園は、聖霊幼稚園という日本式の幼稚園で、混血の子もいればパラグアイ人の子も3割ほどいる。

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「静かにしない子には、何もあげません」
と叱るシスターの声を聞くと、自分の幼稚園時代が鮮明に甦る。

自分が通っていた幼稚園といい、この聖霊幼稚園といい、何もかもがそっくりだった。

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式が終わり、アリエールの卒園祝いとアントニオ家への感謝の気持ちを込めて、ズバリ、洗濯石鹸の「アリエール」を筆頭に、シウダーデルエステで買った子供たちへのおもちゃなどもプレゼントした。

パラグアイ移民生活

アントニオさんたちと別れ、再び荷物をつんで、走り出す。再びツーリングライダーに戻った。
フロリアノポリス、そしてイグアス。またいつの日か、必ず戻ると信じつつ。

イグアスより南下する。
信じられないことに、途中の道路沿いには、難民キャンプのようなスラム集落が存在していた。
どれもブルーシートで囲ったような粗末な簡易テントの中で、家族一同が過ごしているのだ。

イグアス日本人移住地のような家々がパラグアイの平均と思っていたばかりに、露骨な貧富の差という現実を見せ付けられて辛い。

パラグアイ南部のエンカルナシオン周辺は、日系、ドイツ系、イタリア系、といった何十カ国からの移住地が点在している。

ある町を通ると、そこはドイツ人だらけで、言葉もドイツ語で商店や街並みもドイツっぽいけど、そこから30分ほど走れば今度はイグアスのような日系移住地。農協なども日本的だ。

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南米の熱帯的な地域なのに、「日本」から「ドイツ」まで30分で行ける、不思議なところだった。

パラグアイと言う国は、人口500万人の小国で、面積は日本とほぼ同じ。世界からの移民を受け入れている国でもある。現在数千人の日本人がパラグアイに住んでいるが、日本人の移民受け入れ枠は8万人。

こうなったらパラグアイや日系社会の活性化のため、そして非行少年防止のため、悪い人間を日本より遠く離れたパラグアイに住まわせ、大自然の中で隔離矯正させれば面白いだろうな、とくだらないことを考えてしまう。

雑然としたエンカルナシオンの町にも、マクドナルドもある。町のバッテリー屋では、「Osaka」「Nagoya」と書かれたパラグアイ製のカーバッテリーが売られている。日本的な名前がつけば格が上がるのだろうか。

首都アスンシオン

エンカルナシオンで宿泊後、一日走り、首都のアスンシオンに着いた。

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セントロ(中心街)はゴーストタウンのようにひっそりしていたが、少し郊外に出れば新しくきれいなショッピングモールが何軒もあり、敷地内には小さな遊園地もある。ある意味日本や欧米と変わらない。

ネットカフェでメールの確認したり、日曜大工のコーナーをのぞいたりした。

メールは、世界一周のはじめにバンコクでHotmailを開設。しかしユーラシアでは全然ネットしなかったのでアカウント消滅。そしてブラジルで再開設。といっても日本語フォントがないので道中読み書きはローマ字のみだった。以後、現在でもそのメールアカウントを使用しつづけている。

ちょっと古いショッピングセンターの店の中にはテレビが置かれ、サッカーの試合が写っていた。適当に地べたに座ったり体育ずわりなどしてテレビを見る人たち。力道山の試合のように盛り上がっていた。

そして、ほかの新しいショッピングセンターでは「ミニモーターショー」のような新車販売会が開催されていたが、日本車のみならず、アメ車や韓国車も人気が強い。

モーターショーには付き物のコンパニオンのねえちゃん。モデルのようにスタイルがいいが、顔立ちに関しては、やっぱりきれいであっさりした日本人の顔のほうがいいと個人的に思った。

アスンシオンの韓国人街に行く。東部のエステの町では台湾中国系が多かったが、アスンでは韓国系が多い。ハングル文字の並ぶ通りで、東京や大阪のコリアンタウンをも思わせる。韓国食品店では日本食も手に入る。

パラグアイに住むドイツ人は主に酪農、日本人は大豆や米、野菜などの農業でパラグアイに根ざしてきたが、韓国や台湾人の場合、ここ最近移住してきた人が目立ち、大半が商業的移民らしい。

しかもアメリカなどに移住したいがためにパラグアイを腰掛代わりに中継してアメリカに行こうとしている人も多いので、そのせいか根がすわっていない感じもした。

韓国系のブティックをのぞいてみると、韓国系の店員とパラグアイ系の店員がいたが、心なしか仲良くやっていない様子に見えた。

アスンシオンではモトサブロー同様旅人がお世話になる日系バイク店がかつてあった。

店主の樋口社長は、北海道生まれのイグアス育ち。北海道の移住ではあきたらず、さらに広いパラグアイを目指したのだろう。奥さんも北海道人会に務めている。

この店では、日本からの中古車や中古バイクを販売しているが、どうやって送られてくるのかと言うと、チリ北部の太平洋岸の都市、イキケで陸揚げされて、そこからなんと5000mのアンデスの峠を越えて1000km以上の距離を運ばれてやっとこのパラグアイやボリビアに送られていくのだと言う。峠越えの際、高山病でダウンする運転手も少なくない。

そんなハンディを背負っているのに、パラグアイでは隣国ブラジルの車は圧倒的に少ない。ブラジルでもシボレーやワーゲンの新型車を生産しているが、日本の中古車の勝ち、と言う感じだった。

その理由として、ブラジル車の場合はアルコール混合ガソリン対応エンジンと言うこともあるだろう。

そして大きな理由は日本車の信頼ぶりではなかろうか。
パラグアイでは先に述べたとおり、Osakaと書かれたバッテリーが売られていた。
現地製でも、日本的な名前がつけば「ブランド」になる。

そのあたりが、「あやしいインチキステッカー」のパキスタンに似ている。
だから、日本ではタダ同然の中古車を、このような大変なコストをかけて運ばれてもまだ安いのである。

日本だと10万キロを越えた中古車は価値がなくなるが、こういう国では50万、60万キロでもボロボロになるまで乗り続けていく。

そして気づいたことは、中古の日本車なのに街を走る車はみな左ハンドルになっていた。

このことを不思議に思って社長に聞いてみると

「イキケには修理工場があって、そこで右ハンドルから左仕様に改造するんだ。自分の車はまだ改造していないから右ハンドルのままなんだけど」

そういえば左ハンドルになった日本中古車は不思議なことに修理の後も見当たらない。どうやって左ハンドル仕様にするのかが不思議だが、イキケでやっても修理代に10数万円ぐらいかかるらしい。
そこまで輸送と改造コストをかけても日本車は強かった。

社長の車(たしか日本から輸入した右ハンドルのままのセリカか何かだった)に乗る。
アスンシオンの街中の路地は穴ぼこのダートもある。社長自身四輪のラリーにも出場しているが、車高の低いクーペなので傷つけないようゆっくり徐行するしかない。

ショッピングセンターで買い物して社長が駐車場に戻ろうとすると、子供たちが「金をくれ」とまとわりついてくる。ここは日本ではない。発展途上国のパラグアイだった。

その日は社長の家にお世話になった。大きな家で、NHK衛星も見れる。
夕食はご飯に味噌汁、唐揚、有志で自家栽培していると言うモロヘイヤのてんぷら、塩鮭。
どれも大変おいしかったが、チリ産の鮭は塩の塊のようにしょっぱかった。

そして熱いお風呂にも入ることができました。自宅を出てから286日ぶりのジャパニーズ・フロ!
世界一周で風呂に入ったのは、490日間の中でもこれが最初で最後だった。

翌日は店に戻ってジェベルの整備をして、アスンシオン、そして想い出多きパラグアイを後にする。

さあ、いよいよアルゼンチンだ・・・・・

–第14章–
おわり

★次号の予告★
アルゼンチンとチリ、ボリビア編。
ブエノスアイレスの巣くう闇・・
疾風怒濤のばか走りで大平原を激走!
そして5000m級のアンデス越え!
お楽しみに!

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