世界一周04 インド中部篇 熱すぎるインドでガンジス入水!

アジア・中東・欧州編
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第4章 インド中部篇

(2000年4月 11日~4月20日)

★ついに世界一周の旅がオートバイとともに始まった。想像を絶するインドの人々との出会い!

●カジュラホの濃い人たち
●タカハシ少年の暗影
●インド人が歌うJ-POP
●ガンジス河に入水すると
●信じられない物乞い
●インドのテレビと三文字言葉

インドの物価
通貨1ルピー= 2.5円(2000.03) ・ガソリン 70円
・宿(地方125円、都市部400円から。)
定食:ベジタリアンカレーとチャパティ、漬物、ヨーグルト 12.5円~60円
・中華料理の焼飯 100円
・サモサ(インド揚餃子)1ケ 2円  ・路上で売る冷や水 1カップ1.25円
・チャイ(ヤギの乳のミルクティー) 5円
・ラッシ-(ヨーグルトドリンク)17.5円~25円
・マンゴ1ケ 30円 ・マンゴジュ-ス(パック入り)25円 ・マンゴアイス 5円

 


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カジュラホの濃い人たち

インドの中部。アウランガバードのカーニバルの夜から一夜明け、エローラを経由してエロチックな遺跡で有名なカジュラホに着いた。

ここの官能的な彫刻に期待してやってきたのだが、目を上げないと彫刻があまり良く見えず、つまらなかった。

だがカジュラホでおもしろいのは、遺跡ではなくここの人間たちだった。

遺跡に入ると、神の末裔だという老人がやってきた。その老人の手には、なんと指が6本もあったのだ!普通の五本指のうえに、手の側面(手刀)の小指の付け根2センチ下のところから、1~2センチぐらいのとても小さい指らしきものがL字状にニョキッと生えていた。

老人の家系はみんなこの六本指らしく、それゆえに「神の一族」と自負しているが、正直言ってその六本指は気持ち悪かった。

土産屋の前を通ると、店の主人がやってきた。「買わなくてもいいから」と言われて、中に入ってみると、

「私の兄は結婚して日本に住んでいる」と言い出した。

その写真を見せてもらうと、いかにもヤンママな妻(失礼)と、インド映画に出てきそうなサングラスかけた男優風の渋めの夫。そして二人の間に赤ん坊がいた。

この夫婦は四国の松山でお好み焼き店を開いてるそうで、彼女がインド旅行している時にこの土産屋で知り合ったそうな。

だからきっと松山でインド風のお好み焼きも作っているのかもしれない。

カジュラホにいたときは、ヤダブロッジという125円の安宿に泊まっていたが、この主人がなかなかのくせものだった。

宿の主人はやたら強引でおしゃべりだな、と思っていたら、いきなり「明日ウチの実家にこないか」だって。

この宿の主人は30歳ぐらいのなかなかシリアスな男なんだが、名前がパプという。なんか名前負けならぬ名前勝ちしているけど、このパプちゃん、とってもしつこいから宿でゆっくりできない。
だけど悪い人間ではないし、ただの宿泊客ではなく遠方から来た友人として扱ってくれた。

ここカジュラホは一大観光地とあって、日本食レストラン?も何軒かある。その名前も通称「うまいっす食堂」。実はあの猿岩石もやってきたという、一部では有名な食堂だった。

とはいっても食材の少ないインドで寿司とかざるそばなんてあるわけがないので、あるのはオムライス、親子丼、お好み焼き、インスタントラーメンといったメニュー。

そしてインド人が作るから味の当たり外れが非常に大きかったりするし、そんな有り合わせのもので作る「超印度風日本食」なのだが、親子丼や野菜炒め、から揚げはなかなかおいしく、カレー地獄の日々を生き抜いてきた私にとっては感涙ものの味だった

夜になり、またもうまいっす食堂に行く。日本人の書き残した情報ノートを読むと、生の日本語を読む機会がないのでその場でむさぼり読んでしまう。

そのうちに食堂の主人がやってきた。初老の彼は日本人旅行者からの信望も厚い。

きっと私と同じように、多くの日本の旅人がインドの旅でカレーな毎日でうんざりしているときに、ここで夢に見た日本の味を食べてすっかり感涙してしまうのだろう。

そのためかここでお世話になった旅行者が帰国後わざわざインドへ醤油やだし、ソースなどの調味料をここに送ったりしている。

インドでは醤油ですら入手するのは難しく、こうして日本から送られてきた醤油などを使っているのを見ると、みんなの力で印度風日本食を支えているんだと思うと、もう頭が下がる思いだ。

彼は日本へ2ヶ月ほど遊びに行ったことがある。彼は日本の友人の伝手で苦労の末日本のビザを取り、東京と大阪でそれぞれ世話したバックパッカ―の家に泊まり歩いたそうだ。

どんなに切り詰めても新幹線に乗るだけでインド人にとってはベラボウな金になるから、カジュラホに帰ったら奥さんにえらい怒られたらしい。

何はともあれ、タイ以来にしょう油が堪能できた。最近日本ではマヨネーズなどの調味料が人気で、しょう油は需要が落ちていると聞く。

その分海外での日本食ブームがあるから一長一短だが、しょうゆ顔、ソース顔 (完全に死語!)の日本人である以上、長く外国を旅すると日本の味に飢えてくるものだ。

タカハシ少年の暗影

翌朝、宿の主人、パプちゃんが1人の少年を連れてきた。名前はタカハシと呼ばれているが、どうやら本名ではなさそうだ。15~16歳ぐらいで半分日本人の顔立ちだ。

「彼は日本人のアキラに会ってうれしがってるぞ」

と、パプがパプパプ言っているが、タカハシ少年は無口で、どこかさびしげな暗い影を感じる。

相変わらずずうずうしいパプは私のジェベルを勝手に運転し、パプ、少年、私の3人乗りでパプの実家へ向かった。いきなり道路を外れ、一瞬血迷ったのかとおもったが、砂埃を上げて道なき道へ進むと、やがて隠れ里のような小さい集落が見えてきた。

その集落にパプの実家があった。入ると広い中庭を囲むように部屋がある。選挙のポスターがあったが、それはパプの父が出馬したときのものだった。

土間を見ると、サリーを着た何人かの女たち(パプの祖母、母、妻、その姉妹など)が暗い土間の下で小麦を挽き、粉を練り、チャパティーを作りかまどで焼いている。

それらの作業は、まるでドキュメンタリー番組のワンシーンのようだった。

昼食ができた。マサラ(カレー)とチャパティ。パプもタカハシ少年も私も手づかみで食う。マサラはとても辛くてしょっぱい。高温下でもすぐに腐らないためのきつい味付けがインドカレーの典型的な味だ。

発酵させてから生地を焼くナーンと比べて、生地をこねてすぐに焼くチャパティは薄くてパサパサして味がない。

インド人の生活と食事を知ることができて貴重な体験だったので礼を言って、パプ家から宿に戻った。
そしてパプは、タカハシ少年の事について話した。

「実はな、タカハシには両親がいないんだ。だから本名だって無いし、生みの親の顔を知らないんだ。彼が2~3歳の頃、道ばたで一人捨てられていた彼を見つけて、それからはおれたちが親代わりとなって育てたのさ。だから、彼はときどき両親のいないさみしさのあまり、よく涙を流すんだ・・。

だけどタカハシは幸せだよ。いつも親同然のオレの家族と、兄弟同然の仲間達がいつも一緒にいるんだからな・・・・・」

そうだったのか・・・。

おそらくここに来た日本人旅行者と現地の人間の間に生まれたのだろうが、お互い距離や考え方も違って面倒見きれずに捨てたんだろう。あまりにも身勝手だ。

しかし豊かな日本で、両親のもと何不自由なく育ち、あげくのはてにこうして自由にバイクで世界を走り回っている自分にとって、さびしげな影のタカハシ少年を見るたびに、なんとも言いがたいつらいものがこみあげるのであった。

インド人が歌うJ-POP

その夜、街を歩いていると、インドのべスパに乗ったとっぽい若者がやってきた

「あなた日本人?もしよかったらウチきませんか?」

と結構うまい丁寧な日本語で言われた。
だいたいこの手の連中はいかがわしい場合が多いが、話してみると彼の場合ずうずうしく強引にさそうわけでもなく、やましさを感じないあっさりとした自然な感じがした。

まあ、万が一やられても手元には少ししか金持っていないから、べスパの後ろに乗ってGO!GO!

彼の部屋には、雪の北海道を旅行した写真があり、そしてお気に入りだという曲をかけ始めた。
テープからはウルフルズの曲が流れてきた。なんかなつかしい。

「♪ガッツだぜー」「君を好きでよかった~」なんて彼は曲に合わせて口ずさんでいる。

これらウルフルズの曲は、1996年の初め頃に流行ったわけだが、私と一緒に聞くことによって彼は日本にいたときの思い出が鮮明によみがえるのだろう。
自分も当時18歳。あの頃の熱意がこのカジュラホでよみがえるとは。

音楽は食事と同じであった。
インドではどこへ行ってもカレーしかなく、かかってくる曲はインド音楽だけなので食にも音楽にも食傷していた。

そんなときに、ひさしぶりにうまいっす食堂で日本食を食い、ここで日本の曲を聞くと、マサラ漬けだった自分の頭が活性化される気分だ。

「やっぱりカジュラホのような小さな町のほうがいいね。都会だと大きすぎて、存在感が無くなり、心も乱れてくるんだな。やっぱり田舎がいいね」
と、彼はしみじみと話してくれた

結局、カジュラホは2泊しただけなのに、日本とのかかわりも大きい事もあって、数え切れぬくらいの出会いと発見をした。

彼らの他にも、私の旅にアドバイスしてくれる人もいた。見かけはおじさんだが、私よりも若く21歳だった。だけど見かけに負けずしっかりした人だった。

カジュラホは、自分にとっても絶対忘れられぬ町となった。

ガンジス河に入水すると

カジュラホから、ヒンズーの聖地バラナシまで一日で一気に走る。

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道路の状態も悪く、ボロボロで狭い。思うように距離も稼げない上、42℃の殺人的暑さ。バラナシからあと130kmの地点で、眺めのよい標高差200mの絶壁を一気に下って平地に入ると、人口も多くなってさらに走りずらくなる。

バラナシに着いたのが21時頃。飲まず食わずで走ったからもう死人状態。今日は427km走ったのだが、インドではどんなに一気に走ってもこれが限界だ。

のどが極限までに渇きまくっているので、ツーリストバンガローの中にある冷水機の水を浴びるように飲む。2リットル近く飲んだろうか。

なぜここまで水を我慢したかというと、田舎ではなまぬるく、しかもボウフラがいそうな不衛生な天水しか飲めないのだ。

走り始めた最初のうちは、もうどうにでもなれと、行く先々の村でそんな生水を飲みまくっていけどね。食事だって不衛生だから生水を怖がっても意味がないからだった。

しかし町に行けば案外冷水機があることがわかり、冷たくて浄化された水を飲むともう天国だ。
水に関してはずいぶんとほっとした。

翌日は、ガンジス河付近にあるホテルスリジョダヤに泊まる。

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それにしてもバラナシは、3輪自転車のタクシー・サイクルリキシャー(力車)の数がものすごい。力車の幅が広いので混雑すると力車の後輪に引っかかりそうになり、非常に危険だ。そして巻き上がる粉のような砂で、視界も最悪。

バラナシは、建物の間が狭く、路地なんかやっと歩けるぐらいの狭さで、しかも道を間違えると行き止まりになったりして何度もぐるぐる回る羽目になる。つまり街全体がラビリンス(迷宮)なのだ。

敵の侵略を防ぐ為なのだろうが、やっぱり碁盤の目のような計画都市にくらべればわかりずらくてしんどいが、まるでRPGに出てくる中世を冒険する勇士になった気分で、緊張感があり面白い。そして建物で直射日光を遮る事になるのでとてもすずしいのだ。

一見すると不便な街並みも、実に風土に適しているのだった。

そしてガンジス河を眺めた。ヒンズー教の聖地だが、当然米の研ぎ汁から糞尿まで、さらには死体までなんでも流れてくると言う、全てを包み込む聖なる大河でもあり、生活廃水のデパートというこの河を瞑想するように眺めていると、女性の声が。

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なんと、カーニバルの時(第三章参照)のジャッキーだった。8日ぶりとはいえ奇跡の再会!

彼女もまた、同じルートでカジュラホ(彼女が言うとカツラオと聞えた)そしてバラナシに来たのだ。その後はニューデリーで終ると言っていた。

小さな食堂で一緒に食事する。この店は小さい割になんとイタリア、ドイツ、イスラエル、アメリカ、そして日本の料理まであると言うすごさ。

だがそこはインド。ありあわせの限られたもので作るからかなり適当なイタリア料理や日本料理が出てくる

親子丼と中華丼がメニューにあった。親子丼を注文する。ジャッキーはとまどっていたが店の主人が説明してくれたので彼女はホッとした様子だった。
おそらく彼女もインドの道中でロクなものを食べていなかった事は想像に易しい。

だが出てきたのは、親子丼とは別物で、一言で言えば水っぽい中華丼だ。ジャッキーが頼んだ中華丼にしても親子丼のそれと同じで、まるで小学校の調理実習の失敗作のようなしろもの。まあ安いし、味もまずまずだからよしとしよう。

その後彼女と別れてガンジス河に入ることにした。病原菌とか吸血ヒルまでいるといわれており、入る日本人旅行者はほとんど少ないが、暑いのでプール代わりに記念に入水することにした。我ながらなんとも単純なきっかけだ。

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インド人も沐浴と言うか川遊びしているから入ってみると、川は思ったよりもきれいで、ゴミなんかも流れてはいない。沐浴したり洗濯する場所なのできれいに保っているようだ。

川から上がった後、体の匂いを嗅ぐとヘドロのにおいなんか一切何も無くて、まるで四万十川からあがった時のようなさわやかさだった。やっぱり聖なる力なのだろうか。川から出たら、インド人から「よく入ったな」とほめてくれた。

ガンジスで有名な死体焼き場に行く。ヒンズーの死者を川沿いのたき火で火葬するものだが、焼き場に近づくと男がやってきて、「塔から眺めたほうがよく見える」といって案内されて、3階建てぐらいの塔の中から燃える様子を眺めた。

といっても火は見えても死体は見えず、普通のたき火を見ているのと変わらなかったが。

すると男は近くにいた女たちを指差して
「彼女達と死者のためにチャリティー(約500円)くれ」と言い始めた。

そういえば朝、宿の主人でさえ、「お金を寄付したりチャリティーなんかわたす必要はないぞ」
と言われたのを思い出し、
「払えません」と言ったら、男の表情が怖くなった。

こうなったらこっちも、「絶対に払うもんか!」と、スキを見て塔から逃げてやった。
全く何がチャリティだ。これは単なるゆすりではないか。

この他にも、スリにあいそうになったりもして、ワナが待ち構えているような油断できない町だった。まるで大都会のように魅力も欲望もうごめくのか。バラナシはエキサイティングだが治安だって悪い。

バラナシではマンゴーアイスが売っていて、5円で買える。ばかうまでべらぼうに安いし水分とエネルギーの補給にもなるから1日20本ぐらいバカスカ食べた。

そうすると乞食っぽい小さい女の子がやってきてアイスちょうだいと言う。

とはいってもタダではあげたくないし、おもしろくないからいっそからかってやろうとおもい、くいかけの残りをやると「いらない」だと。

「じゃあダメだ」といって立ち去ると、女の子が追いかけてきた。だけど追ったり追われたりで、なんか童心に帰った気分で楽しかった。

インドの道中、そんな調子だからインドではひとり旅の孤独感はこれっぽちもなかった。

宿に戻ると、主人が「日本語で看板を書きたいんだけど、どうやって書くのかね」と言われたのでカタカナで「ホテル スリジョダヤ」と書いた。外の看板はまだ何も書いてないので、そのうち日本語で看板が埋まる事だろう。楽しみだ

そのバラナシの下町では、子供が集まってファミコンのスーパーマリオ(中国のコピー物)を白黒テレビでプレイしていたりで、妙に懐かしい。

ガンジス河では毎晩儀式のようなものをやっており、ちっとも飽きない。ガンジスの対岸は、けがれの地とされており、草むらだけでなにもないのだ。せいぜいボートが少し停泊してあるぐらいで、対岸の静寂と当岸のカオスが想像以上に対照的だった

ガンジスはなんとも奥が深くて、来る価値のある川だった

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信じられない物乞い

バラナシを去り、ひた走る。途中道ばたのアイス売りのおっちゃんからマンゴアイスを買い、走っては食べ、飲んでは走りの連続。そうしながら走らないと45℃の炎天下、熱中症で死ぬ。

正午あたりになると危険なぐらいの暑さゆえ意識が薄れ、東屋で動けなくなってしまうこともあった。

それゆえに、あるときは雨ざらしのタンクに入った生水も飲んだ。まあ、地元の人間が飲むわけだし、熱中症になるよりは安全だ、と考えていた

そして、国道(アジアハイウェイ)を走っていると、信じられないものを見てしまった!!

なんと、道路のど真ん中に、足のない人が空き缶を持って座っているではないか。

「危ない!!」まあ、見通しがいいからよけられるが、なんと彼は道を行き交うトラックを相手に物乞いをさせられていたのだった

そのために、トラックはいちいちよけなくてはならないのでトラックのほうは事故を起こす可能性があり危険だ。乞食の方だって通行妨害をしているわけだし、いつ轢かれてあの世に行くのかわからない。というより時間の問題だろう。

季節の大半が高温になるこのへんでは、インドでもさらに貧しい地域だが、ここまでやらないと人間は生きてゆけないのか。時代に反するやりかたで、公共の安全や流通よりも自分達の利益を優先させ、カーストの底辺で死ぬ気でこうして糧を得ざるをえない人もいるインドの現実。

最下カーストは犬以下の扱い、とは聞いていたが、実際に動物以下に人命を軽視されている現実をこの目で見てしまった。

なんとも狂っている。

世界一周の旅で一番無残なシーン。

 

インドのTVと三文字言葉

タージマハルの町、アーグラーに到着した。「ホテル・ホスト」は、一泊200円で部屋にはケーブルテレビがついてるが、そのくせTVは白黒だった。まあたった200円でTV付きに泊まれるから気に入った。

タージマハルに行くと、外国人は500ルピー(1250円)!ざけんなよとおもいつつよく見てみると金曜日は無料解放でタダで入れる(注・2005年現在は無料解放日はないようだ)とのことなので迷うことなく金曜日まで滞在することにした

とゆーことで、走ってばかりの日々なので、単車と自分も休養、休養!!

インドではテレビは全然見てないので、見溜めしようと早速チャンネルのダイヤルを「回す」。まずはMTV(ミュージックテレビ)を見る。インド人のお色気ねえちゃんが司会していて、しかもTシャツにGパンと言う出で立ちだった。

今までインドを走っていても、若い女の子もみんなサリーとか、あるいは地味な洋服を着ていた。中年女性以上になるとサリーの着用率は100%だった。

それゆえに司会のねえちゃんは顔立ちにしても褐色の肌にしても、なんかラテン系みたいで、彼女を見ると現代に戻った気分だった。
スタジオはボンベイなので、やはりボンベイはインドの最先端を行っている。

ディスカバリーチャンネルでは、世界的に有名なガイドブックのロンリープラネットのコーナーをやっていた。模範的な白人バックパッカ-が主に非先進国を紹介していた。

他には、言葉がわからなくても楽しめるポパイなどのマンガ。世界を圧巻している日本のマンガはなぜかインドではやっていなかった。文化の問題なんだろうか。

体がとてもだるいのでずっとテレビを見てゴロゴロ過ごしたが、アーグラ―の商人はそんな私を容赦しなかった。

通りを歩くと、やかましいほど何人もの土産屋の店員が寄ってくる。
「ハロー、アナタトモダチ、ミルダケヤスイ」「ヤスイヤスイ」

彼らは適当な日本語で、しつこく口説き落とそうとするが、あまりにしつこいので「いらん!」
と叫ぶと、店員とは思えぬ発言を取った!

「ユーのち〇ぽ、小さい!バカ、バカ」

と思いもよらぬ三文字言葉だった。
もうこれには怒りどころか力が抜けて笑いが止まらなかったよ。一本取られた。

おそらくこの店員は、自分の事を日本語も話せる「カリスマ店員」だと思っているのだろうが、
実際は単なる「アホ店員」か?

それ以来、店員のおっさんは合うたびに「ハロー、チン〇」と、日本では絶対禁句の三文字言葉を発射してくる。
おっさん、いい年こいてるのに頭の中は小学生同然だよ。

いやー、インドって、本当に面白いですね~!(水野晴郎風に)

第4章 おわり

 

15年ぶりに訪れたあの場所

タージマハルの町・ホテルホスト。

15年ぶりに訪れたアーグラーは、変わっており、最初ホストが見つからずホストの前の道路は車両通行止めになっており、やっと発見。

さすがに白黒テレビはもうなく、デジタル放送できるテレビや、新型の液晶テレビがあった。

当時200円だったのが、一泊400ルピー(800円)ここも4倍になった

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屋上からの眺め。タージマハルが見える

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★次号の予告★
衝撃も笑撃もモロに受けたインドの旅も佳境!
タージマハール、ニューデリー
そして緊張のパキスタン入国!
常識では考えられない人々の生き様に出会います。

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