●オランダベルギー・悲惨の極み
●ついに花の都・パリへ
フランス 通貨 1FF=17円★
・ガソリン 122~136円 ・3分間写真 425円
・プりクラ 340円 ・ゲーム85~170円 ・コインランドリー 374円
・フランスパン 56円 ・牛乳500ml 71円 ・きゅうり 83円
・ばなな6本 94円
※フランスで買ったポテトチップスはとても塩辛い。水戸泉じゃあるまいし。
オランダベルギー・悲惨の極み
世界一周の相方・スズキジェベル125をハノーバーで修理したのはいいが、またすぐにノイズが発生してきた。せっかく3万円払って治したのに、さらに不安になる。
のどかなヨーロッパの典型的な田園風景が広がるいい景色の中でも、自分の頭の中は不安でいっぱいだった。
オランダのアムステルダムに着いたのだが、市内のど真ん中でエンジンから「ピシピシッ!!」といういやな音がした。
クランクケースは異常に熱い。オイルキャップをあけると蒸気が。なんとオイルが全て燃え尽き、エンジンが焼きついたのだ
「ああ、これでわしの旅もGAME OVERか・・・」
と、情けない気分になったが、予備のオイルを入れたらまた動いた。
しかし2サイクルエンジン並にオイルを食うようになり、毎日のようにオイルを買った。明らかに異常だ。このとき、
「なんとかパリやロンドンまで走って、だめだったら日本に帰ろう」
と考えたほどだった。
アムステルダムは物価が高いしガラが悪いので適当に観光してすぐ退散。町外れの高架橋の下で野宿した。
翌日はロッテルダム(Rotterdam)のEuroportを見た。世界最大ともいえる巨大な港で、敷地内にコンテナがもう果てしなく続く。圧巻。
そして有名なあこがれのオランダの海水浴場「スケベニンゲン」にも行った。といっても何の変哲もないごく普通のリゾート地だった。
観光客も多く、天気も良くビーチには人も多いが、緯度が高く太陽の光が弱いので、まるで北海道の海水浴場のように泳ぐにはちょっと寒そうだった。
ベルギーに着くと、後輪がパンクした。欧州では修理費が高くなるのでその場で自分で直した。2時間以上かけて直したのに、失敗したのかまたパンクした。いらいらしながらパコパコ、パンクのまま走らせて、GSでもう一度修理しようとタイヤを外すと、チューブの根本がちぎれていた。
「くそったれ!」使い古しの予備チューブがあったのでそれを嵌めた。
夕方、やっとブリュッセルに着くころには、チューブの古傷から空気が漏れて、またペシャンとなった。そのたびに小さなポンプで息を切らして空気を入れなくてはならない。
ブリュッセル近郊の森の中のベンチで野宿する。再度のエンジントラブル、連日の野宿生活、そして性質の悪いパンク・・・
「なんでこんなに辛い思いをしなけりゃならんのだ」
と、絶望と孤独で死ぬほどみじめだった。
だが、明日はもっと悲惨な1日になるのを、この時は知る由もなかった。
翌朝、ベンチから目が覚めた。せっかくいい夢を見たのに現実はやっぱり絶望。タイヤに空気を入れて出発したが、3km走るとまた空気が抜けた。
完全にいらつきながらまた空気を入れようとすると、今度はエアポンプがないのだ!
昨日の疲れで落した事に気がつかなかったのだ。
バイクを置き去り、来た道を歩いて戻りながら必死でエアポンプを探す。
一時間も歩き、野宿したベンチの近くまで戻った。
すると
道路上には、まるであざ笑うかのように車にふみつぶされたエアポンプの無残な姿があった・・・
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ここまでいっきに不幸が連続してふりかかると、ついに最後の神経の糸がプッツンと切れ、発狂した。
くだけたポンプを思いっきり叩きつけ、叫びながら、暴れまわった。
そして我に返り、バイクのところに戻り、「もうやけくそじゃー!」
と、また空気の抜けたタイヤをパコパコしながらブリュッセル中を走る。とっくにチューブはもげているし、走りにくいし、何より目立つ。だがそんなことはどうでもいい。
バイク屋を探さないと。
バイク店を当たっても、ビッグバイクが主なので、チューブを売っている店は見つからないが、夕方、何軒か当たってやっとチューブをゲットした。その上、ガレージの中で交換させてくれた。
そして・・・ついに後輪はよみがえった!やったぜ!
今までの苦しい事がいっぺんに吹き飛び、別人のように心にも一気に余裕が戻った。
ベルギーは、南北にゲルマン系とラテン系に分かれ、ブリュッセルとその以南では完全にフランス語圏になる。ブリュッセルでは店員がボンジュールなんて言ってた。
ブリュッセルの中心部は石畳、教会、路面電車と、昔と全然変わらない中世の街だが、少し離れた新市街では新宿のように高層ビル群があった。
ベルギーとフランス間の国境は街中にあって、チェックポイントも何もない完全フリーパス。ちょうど隣の県、いや隣の町に行くような感覚だ。街中の見えない境を越えただけで国のシステムや法律が変わるのだからにわかに信じがたい。
フランスとベルギー国境。中央分離帯のあるところから国境になる。
当時、ベルギー側の国境の町ではベルギーとフランス両方の通貨で買い物できたが、フランス側では仏フランのみ。ドイツマルク同様、仏フランはやっぱり強かった。
ついに花の都・パリへ
8/5。パリから250kmの町、バレンシエンヌにあるスーパーの軒下で目覚める。
昨日の夜、バレンシエンヌの駅前では酔っ払い同士がビール瓶振りかざしストリートファイトしていたが、ここのスーパーなら安全だ。
自分が持っていた華やかなフランスのイメージと、現実の社会の歪みを見た気がした。
銀マットを片付けて、さあ出発!パリに向け南下!
正午に別のスーパーで買い物し、途中道路をはずれ、のびやかな畑の真ん中で休む。豊富な食材を提供するフランスの肥沃な大地の下、食事した。
夕方、シャルルドゴール空港が見えてくるあたりから建物が増え始め、いよいよパリに入る。パリの街中に入ると、黒人街やらアラブ人街が目立つ。
さらに中心へと走ると、ついに凱旋門が目の前に現れた!
「うおおお」
アジアのインドから、ユーラシアを横断して、ついにパリに来たのだ。
毎日苦しみながら、苦労しながら走ってきたのでうれしくて仕方がなかった。
飛行機と違い、大陸の文化の変わり目を見ながら走ってやってきたので、達成感もひとしお。
北海道一周するような荷物満載のツーリングバイクで凱旋門の周りをぐるぐる回り、シャンゼリゼを走ってやり、18:50エッフェル塔の下に着いた。
まだ空は明るく、たくさんの観光客が塔をバックに記念撮影する中、私もジェベル125を撮って労をねぎらった。メーターは43202kmを指していた。
並ならぬ苦労の末に辿り付いた巴里。
詩人・萩原朔太郎は、
「ふらんすは 行きたけれど あまりに遠し」
と言ったが、せめてフランス製の服を着るぐらいでしかできなかったそんな朔太郎の言葉をここで噛みしめるのだった。
次の日は、シャンゼリゼの脇道にジェベルを停めて、すっかりミーハー気分でシャンゼリゼを歩き、ルイヴィトンの店に入った。
案の定、店内は日本人や韓国、中国人のアジア人種だらけだった。なんかこれらのブランドは成金の東南アジア人向けになった気がする。もちろん何も買わずに店を出た。
これがシャンゼリゼ。当然だが表参道よりもひろい。
同じくシャンゼリゼのマクドナルドにはいると、店員の90%が黒人で、まるでアフリカのマクドナルドみたいだった。
マクドナルドは人種を問わず採用するので、旧仏領の西アフリカからフランスへ移住してくる黒人にとって、こういう所で働くのが精一杯なのだろうか。
巴里ではブローニュの森にあるキャンプ場に泊まろうと思ったが、すごい満杯だった。
しかし、宿泊客のふりをして、シャワーを拝借してスッキリしたところでキャンプ場を出た。
毎日野宿してきたので神経がすっかり図太くなってしまった。
そんなわけで、パリから15kmほど離れた、セーヌ川沿いという申し分ないロケーションの公園のベンチで、パリの常宿とした。
パリの空の下。セーヌの夕日。
すっかり日本語を使わない生活をしてきたので、活字に飢えた私はパリ日本文化会館で日本の本をむさぼり読んだ。
日本にいるときは決して読まないくだらない本でも、活字に飢えるとなんでも真剣に読んでしまうから人間の本能と言うのは面白いものだ。
すると、私のバイクを見た中年の女性店員が、
「夜、うちで食事するから来ませんか」
と言われた。これはいいチャンスではないか。
彼女は砂漠と名前が同じ、サハラさん(佐原?砂原?)と名乗った
夕方、教えられたパリ郊外の彼女の家を探すが、じきに迷ってしまった。
電話もかけられないので、通りすがりのフランス人男性からセルラー(携帯)を借りて、やっと話せた。メルシイじゃ!
日も沈む頃、ようやく彼女の家を見つけた。
家に入ると、既に食事ができていた。御飯に、スーパーで買ったという鯵の干物、味噌汁にもやし炒め、レタスのサラダ。毎日貧食だったのでなつかしき和食におおトレビアンとうなってしまった。
パリのマルシェ
実はこの彼女も、若い頃女ひとりで車でヨーロッパを回っていて、寝るときはいつも車の中。食事はカンズメばかりという、貧乏旅をしていたのだ。
狭い日本を脱出して、でっかく旅したサハラさんは、やはり荷物満載のツーリングバイクと、薄汚くてギラギラした目の私を見て、きっと懐かしく思ったに違いない。
パリから再び北上する。フランスは戦後近代化発展のためにアラブやアフリカ方面から大量に移民を受け入れただけあって、パリの近郊の団地では住民がほとんどが黒人だったりと、ヨーロッパの国、白人の国とは思えないぐらいすごいところだった。
田舎に出れば北海道のようなのびやかな風景が続いた。そしてフランスのカレーに着いた。そこからドーバー行きのフェリーに乗るのだった。