第17章 ペルー サバイバル編
通貨1ソル=33円 ・ガソリン 70円 ・宿 330円~
・I’net 66円/h
定食:牛と玉葱煮、ライス、スープ、水に近いジュース 66円 ペルーの定食もうまい
・じゃがと牛肉串 33円
・ペルー名物・インカコーラ 1.5L 116円(黄色いので、別名小用コーラ。
かなり高いが、類似品は安い。)
※秘魯之利馬(ペルーのリマ)中華街有。
・チャンポン 217円
・CHIFA(小皿に焼飯とあんかけそばをのせたペルー風リヤカー屋台中華。そんなにおい
しくはなかったが小腹がすいた時に最適。) 33円
・Cha Siu Pau 99円 (肉まん・焼豚包。高いだけあって角切りのチャーシューが入
っており日本のコンビニのよりうまい)
決死のアンデス脱出
このあたりはゲリラの出没地帯でもあり、一時はバスすら通らなかった危険地帯だった。
そんなところで真っ暗闇の中動かなくなると言うことは、野獣の棲むジャングルに放り出されたのも同然。このときばかりは、真っ暗闇の恐怖の中、本当に死を覚悟した。
このままでは遭難だ!
必死で助けを求める。
・・そして、運良く白いランクルがやってきた。それはなんとパトカーだったのだ。
日本でも高級車である新型ランドクルーザーのカッコいい大型四駆が先住民の住む田舎道で見かけたのは場違いな気もするが、そんな四駆がパトカーに採用されているということは、
「ペルー国家にもこれだけ金力があるんだ、抵抗しても無駄だぞ」
という反政府勢力に対する誇示的なものが読み取れた。
ポリシアのほかにも一般人が乗っていた。警察の方と応急処置的にプラグコードをいじってみたが、直らなかった。原因は他にあるらしい。
そうしているうちにバッテリーが少し回復したのか、もう一度エンジンがかかるようになったが、すぐにエンスト。それを繰り返しながらやっとの思いで小さな集落に着いた。
すぐに電気修理屋風の店でバッテリーを充電してもらい、寝るところが確保できた。しかしこの村には電気も水道も通っていない。電気は発電機と太陽光によるものだ。
宿といっても、ガレージ風民家の中に何個かのベッドが並んだ寄宿舎のような宿だった。
翌朝。夜来た時は村も真っ暗で何より自分は必死だったので判らなかったが、起きてみるとここは山に囲まれたインディヘナの小さな村ということがわかる。アフリカや東南アジアの少数民族が住む山村をも思わせる。
向かいの小さな食堂でライスにマカロニと牛肉の煮物。コカ茶の朝食。約85円。
店ではマカロニとクラッカーとインカコーラしか売っていなかった。
コカ茶やコカの葉は高山病の症状に効くというので、アンデスの民にとってはごく身近なものである。
コカの葉を化学的に特殊精製加工したのが麻薬のコカインになる。なのでただのコカの葉とコカインはまったくの別物である。
子供たちが村を通る車やトラックを囲んで、じゃがいもや野菜、菓子などを売りつけている。アンデス山村部は教育の機会が無いので、こうして働いている。貧しくても子供たちは力強く生きていた。
伝説の太陽のインカ帝国の名残とあってか、太陽光で充電したバッテリーを受け取る。
同じく太陽電源で動いている型の古い無線機が現役で使われていた。
出発し、チャカの町を過ぎると舗装路に戻る。スムーズに走れるようになりホッとする。
標高4300mの高原は曇り空。民家もあるが影に雪が残っている。放牧が行われている。村の子供たちはアンデスの民族衣装を着ているが、入浴も洗濯もままならないだろう。
谷底の町まで降りて、寒さに震えながら遅い昼食。
また山を越えると雨が降ってきた。太平洋岸のナスカでは、全く雨が降らない(だから地上絵が残るのだ)のに、ちょっとアンデスに入ると鬼のように雨が降る。不思議である。
冬場、関東地方は晴れているのに山を越えた日本海側は雪が降っているのと同じことだと思う。
いよいよ、ナスカまであと100km。気温3℃。雨も止むと同時に標高4000mのこの地点から一気にアンデスを下る。
3,2,1000mと長い山道を下り、ひさしぶりにパンアメリカンハイウェーに戻ったのだ。
道も平坦で、空気が濃くなったのでジェベルのスピードも上がり一気に快調に走れる。
ナスカの町に入ると、そこは夏だった。
何が驚いたかと言うと、アンデスは真冬同然で、土で色あせた分厚い民族衣装を着ていたのに、ナスカではみんなTシャツだけの格好だった。
町の雰囲気も熱帯的な東南アジアとそっくり。同じペルーといえど、シェラ(Sierra:アンデス山岳地帯)とコスタ(Costa:沿岸地方)では、まるで別の国といってもいい。
宿に入ると、周りの人はTシャツだとかキャミソール一枚といった格好なのに、自分は防寒具や雨合羽を着た真冬の重装備のままだったので、はたからみれば異様な感じで自分だけ見事に浮いている。だけど標高4300mの地からここまで降りて来たのさと、我ながら誇り高い気分だった。
気温も3度の世界から一気に25度も上昇したのだ。
命を張って精一杯走り抜けたアンデス越えは、まるで昨日のことを思い出すように強烈な印象だったのだ。
ナスカの地上絵のフライト
ナスカと言えば、地上絵。
まずはバイクでミラドール(展望台)に行った。やぐらのようなシンプルな展望台から見た地上絵はたいしたことが無かった。
だが地上絵の描かれている線の仕組みがわかった。地面で見ると、石ころや砂などをほうきで掃いたような単純なもので、これで良くぞ今でも地上絵が残っているものだと感心してしまう。
一体誰が何のために描いたんだろう。まぎれもなく地上最大のXファイル。夕方に早速セスナの予約をすることにした。
ナスカ市内に戻り、することの無い昼間はプレステの店に入る。百種類の海賊版ソフトの中から遊べるスタイルはチリやイランにもあった。店番のちょっと太った女の子は15才で、客の少年らをまとめるおかみさんというか、おねえさん的な存在。日本人が入ってきたのが珍しかったのか、自分に対して色々面倒見てくれる、ぬくもりのある少女だった。
ところで、日本で一世風靡したダンスゲームも、東アジアでは人気だった。台湾のTVを見ていると、ゲームよろしく矢印や漢字のメッセージが上に上がっていくのだが、それはめがね屋のCMだった。ここでもダンスゲームのソフトはあったが、バンコクのジャスコと違ってマットが無いのでコントローラーだけでやる。
他の客は小中高生が多く大体がサッカーゲームだけ(日本語表示のまま)やってるのでワンパターンだ。
「南米はラテンのリズムがあるからダンスゲームも得意ではないか?」
とも考えたが、やはりコンピューター相手に機械的に踊るのは東アジア人のほうが得意のようだ。
今回の旅でダンスゲームの実機のマシンを見たのは台湾とロンドン、USAぐらいだった。ビデオゲームに対する執着心は南米では少ないと見た。
その後、25ドルで空中飛行のチケットを買った。
翌朝7時ぴったりに、宿にボロいアメ車が迎えに来た。満員の車で5km離れた飛行場へ。
4人乗りセスナにパイロット、チリから来た新婚カップル、そして私が乗り込んだ。30分のフライトである。
制服を着た貫禄あるパイロット。ラテンアメリカではきちっとした格好と態度の人はなかなか見受けられなかったが、そんな人が操縦するのだからカッコよく見える。
離陸後、120km/hぐらいで地上絵に向かう。地上絵に着くとパイロットがそれぞれの絵を説明してくれる。
いま見ると、撮った写真はぜんぜん撮れておらず、まったくめちゃくちゃ。デジカメだったらしっかり撮れていたのに。
地上差300mから見る地上絵と絵葉書を照らし合わせると、色は違えど本物であることを確信。大体の絵を見てまわったのだが、ジャンボ機と違って飛行機酔いしてしまった。
だけど満足のいく内容だったし、25ドル(当時)は破格である。
帰りの迎えの車を見て、思わず笑ってしまう。
ボッロボロのカローラバンに、「厨房用品・清水食器(株)」なんて書いてあったからだ。
しかも後ろの窓ガラスが無いので代わりにビニールが貼り付けられている有様。
メーターを覗くと33万キロと表示されていた。
清水食器(株)のみなさん、異国の地でこのカローラバンはしっかりがんばっているのですよ!!
秘の国・ペルー
ナスカから、ペルーの首都・リマに着いた。
真夏で低地、低緯度だから暑いと思ったが、軽井沢のようにすずしく、拍子抜けしてしまう。南極寒流の影響がここまで来ていたのだ。
リマはサンチアゴと同じぐらいの都市規模だが、いかんせん物騒で危険である。
リマにはロンドンや横浜、神戸や長崎のようにチャイナタウンがある。看板を見ると、利馬日報という中国語新聞も売っている。
秘魯(ペルー)では、日秘会館とか、中秘學校などと、日本でも中国でも「秘」と略すが、この国にぴったりの文字ではないか。
秘の国といっても、もちろん便秘の秘なんかじゃない。空中都市マチュピチュや、世界最大のXファイルとされているナスカ地上絵など、インカ文明の神秘の秘にあふれている。
秘魯というと、テロや盗難まみれというすごいイヤな国だと思っていたが、いざ訪ねると案外面白いし旅もしやすく、百聞は一見にしかずだった。治安が悪くて危険なのを除けばインドよりも10倍旅しやすい。
ペルー北部の都市・トルヒーヨに夜着いたが、バイクがまたエンストしてしまった!今度は無法地帯とも言える夜の街中なので、恐怖で顔面蒼白になりながら死にもの狂いの形相でバイクを押して走り、無事宿を見つけた。
この原因不明のエンストには本当に困り果てた。エクアドルのキトに着いたら是非修理することにしたが、原因を探るべくネットカフェでアスンシオンの樋口社長宛にローマ字でメールを送った。
トルヒーヨでは、小さな食堂で女の子と仲良くなった。ジセーラ・17才。スペイン系白人のかわいいこだ。
店に入ると、ひかえめだけどラテンな彼女は色々話しかけてくれた。天真爛漫なところがイタリアのポテンツァで出会った女の子みたいだった。だけどスペイン語がわからないのはつらい。
こんなチャンスは無いだろうと思い、サンチアゴでの件同様、でたらめスペイン語を駆使した。
深夜なので、ジセーラは
「わたし、今さむいの」
といいだした。彼女はTシャツ一枚だったので、寒いに決まっている。
そこで、ジセーラを抱きしめる。「これであったかくなったろう」・・・
翌朝、店に戻るとジセーラがいた。
昨夜のつづきで、地図を広げて旅のルートを説明したりした。若気の至りで、昨夜は日本人同士じゃやらないような大胆なことをしてしまったのに、いやがるそぶりもなく、うれしかった。
もし自分がスペイン語話せて、長期間トルヒーヨにいたら彼女といいことになっていたかもしれない。
だけど自分は旅が目的だし、町も物騒なのでジセーラとは今日で名残惜しくもお別れである。
日本にいたときは世界一周のためにお金をためていたのでいつも金も無く、ロクに女性と付き合ったことが無かった。そのときの反動が出たのかもしれない。だけど模範的なラテン式ふれあいなのでいいじゃないですか?!
トルヒーヨを後にして、北へ向かうと海岸にさし当たる。海辺の村といい、常夏のさわやかな潮風といい、とても気持ちがいい。
しかし、ついにエクアドルへの国境へ着くと、町のど真ん中に国境があるため、あたりは活気があり、子供やら闇両替やらがウジャウジャ寄って来て、インドを彷彿させるうるささだった。
ペルーとエクアドルは領土紛争があり、現在も正式な国交が無いし、両国の地図も違っている。
しかしそれとは裏腹に、民の交流も盛んで市場もワイワイ活気があふれどこが国境なのかわからないほどだった。同じ紛争を抱えるインドとパキスタンとは180度違う。
国境では闇両替屋がやってくるが、彼は電卓を打ちながら「今日のレートは14だから、60ドルの交換なら720だ。いいレートだろう!」なんてのたまう。
メモリー機能を利用した電卓サギだった。
日本だったら小学生でも見破られる幼稚な詐欺。
しかし、教育を受ける機会が無い人にとっては足し算すらできない人もいる。そうなるとだまされてしまうのだろう。そう思うと複雑な気分になってしまう。
そして次はエクアドルだ。