スティーヴ ビコ 南アフリカの旅で私が見た「残る差別」「上から目線クリスマス」

アフリカ
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きょうのGoogleロゴは スティーヴ ビコです

そこで、南アフリカのアパルトヘイトは実態はどんなものだったのか、アパルトヘイト真っ只中の時代と、私が旅したその後の時代・2008年をつづっていきます

1973年 アパルトヘイト時代の旅

海外ツーリング界のレジェンド 賀曽利隆氏が1973~74年に世界六大陸貧乏旅行をしたときのエピソードです

南アフリカ最大の都市・ヨハネスブルグを郊外列車に乗ってぐるりとまわっているときにも信じられない場面に出会った
電車は1等、2等、3等に分かれていて、スプリングスという駅で3等の切符を買ったのだが、お金を払い、きっぷをよく見ると、なんと1等の切符になっているではないか。
すぐに切符売り場に戻る
「あの、3等の切符を頼んだのですが」
「でも、あなたは日本人といったでしょ。だから1等の切符をわたしたのですよ」

アフリカ人の切符売りは、そういって怪訝そうな顔をした。
切符を買うとき
「あなたは何人ですか?」と聞かれたのだが、ぼくはてっきり彼が、この人はどこから来たのだろうかと興味半分でたずねたのだとばかり思っていた

彼が3等の切符を売らなかったのは、ぼくが日本人だからだ。
当時の南アのアパルトヘイトはきわめて激しいもので、ホワイト(ヨーロッパ人)と、ノンホワイト(黒人、アジア人、混血)にはっきり区別され、あたかも人間でないような扱いを受けていた。

ノンホワイトの中にあって、日本人は例外としてホワイトの待遇(名誉白人)を受けており、
ホワイトは3等にのることはまずありえないからだ。

ぼくは3等にこだわり、切符を取り替えてもらってから電車に乗った。
1,2等はホワイトとノンホワイトの車両と言うように分かれていたが、3等はその区別はなかった。
3等はノンホワイトが乗るものと決まっているかのようで、1,2等はガラガラなのに3等はギュウ詰めの満員だった
引用元 海外ツーリング完全ガイド

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ここは白人専用だ!

南アフリカのウーピントンと言う町に付き、ちょっと洒落たレストランに入ったときのこと。

すると、テーブルに座るか座らないうちに、つかつかと歩みよってきた中年の白人の客に、突然、けんか腰でどなられた。

「ここは、ホワイトオンリーだ。オマエの来るところではない!とっと出て行けー!」

「冗談じゃない!ここはレストランだろ。腹がへってるのに、ホワイトもノンホワイトもあるもんか!」
ぼくもムカッときて、負けずに怒鳴り返してやった。店の主人やほかの客たちはなりゆきを見守っている。
「ノンホワイトの店は別にある。そっちにいけ」
「あんたにいちいち命令されるおぼえはない」

押し問答が続いたが、最後にそれを言うのはすごく抵抗を感じたが

「自分は日本人だ」

と言った。

結果がどうなるかわかっていながら・・・・。

 

男は急に態度を変えていった

「いやー悪かった。日本人とポルトガル人は例外としてヨーロピアンな人だ」
ポルトガル人も例外扱いとは興味深かったが、彼はビルホーエンさんという40歳ぐらいの人で、それからはうってかわって愛想がよくなった

「好きなものは何でも食べなさい」とメニューをわたされると、一人でしゃべりまくっていた

「日本はたいした国だ。私と妻が持っている日本車はすばらしい。私はマンガン鉱山に勤めているのだけど、日本はいちばんのお得意先でね。そうだ、首にパスポートをぶら下げておくといいよ、私は日本人ですってね。そうすれば間違えられずにすむよ」

その日、教会で寝させてもらおうと、通りすがりの人に教会はどこですかと聞いた。
すると、白人用か黒人用の教会かといわれ、愕然としてしまう。なんということ。

駅もトイレも学校も郵便局も役所も・・・いたるところに区別を目にしたが、神のもとで人間の平等を説く教会までも同じであった。

スーパーマーケットのインド人主人の言葉に、ぼくはだまりこむ以外はなかった。

「日本人はいいねえ。どんな一流ホテルにも泊まれるのだから。私たちノンホワイトは、いくらお金を払っても入り口で追い返されるよ。みじめで情けないけど、この国を出て行くわけにいかない。
生きていくためには仕方のないことなんだ」

 

引用元 海外ツーリング完全ガイド

 

そして、アパルトヘイトの後 2008年

南アフリカの衝撃的ポスター

南アフリカは、アパルトヘイトのあった国で、今なお人種間の隔たりが根強く残っている

日本も南アも、12月はクリスマスシーズンだった。

地中海風の優雅な住宅街がある反面、都市の近郊には盛大なスラム街がある。

このポスターをケープタウンの海沿いの高級住宅街で見かけたとき、正直、度肝を抜いた。

たとえば、横浜や神戸などの住宅街に「貧しい家族に、クリスマスプレゼントを!」なんていうポスターが貼ってあったら、どう見ても違和感ありまくりだよね。しかも、Feedという言葉が、「エサを与える」みたいなニュアンスに聞こえてならない。

もちろん、貧しい人を助けるのはいいことなんだけど、黒人にだってプライドがある。貧しくても自分たちの力でがんばっていこう、という人も多いはず。それを「黒人=貧しい」と決め付けている時点で、白人らの何様的&上から目線がにじみ出ている。

「どうせあなたたちは貧しいんでしょう、私たちの愛で恵んであげるザマス」という。

これから先、アフリカの旅のなかで、アパルトヘイトは無くなれど、このような「人種の隔たりの違和感」というものを、うんざりするほど見ていくことになる。

 

ケープタウンの写真。見ての通り、ここは割とリベラルだったが・・・街の治安は悪い。

残っていた差別

ちょうど8年前の12月15日、南アはオーツホーンという町にいました。名物のダチョウが食いたかったので、ラテン風レストラン「La Dolce Vita(The sweet life)」に入る。広い中庭を利用したオープンテラスなので単車は自分の席の隣に泊められるし、風通しもさわやかで落ち着く。そのうえ無線ラン付きなのでひさしぶりにネットを堪能しまくる。
ダチョウのステーキセットは95ラント。約1000円。

超節約ツーリングを主体とする自分にとっては高い食費だが、ステーキは300gもあり、独特のくさみが若干感じられたものの牛肉よりも柔らかく美味。しかも無線ランでネットがやり放題ということを考えれば、とても安いものだ。

店員もとてもフレンドリーで、もう至福のひと時。
ああ、アフリカのツーリングって最高!

と・・、いいたいところだが、考えてみれば店員は白人で、店内のカップルや家族ずれの客は、すべて白人。まるで欧米やオーストラリアにいる気がする
黒人の姿は店内では見られなかった。

そう、ここは「白人向けレストラン」なのだった。

かつて人種隔離政策アパルトヘイトがあった時代は、あらゆる施設が白人専用・黒人専用と厳格に分かれていた。だからこのレストランも昔は「白人専用レストラン」だったのだろう。

リベラルなケープタウンにいたときには感じなかったことだが
ここのような田舎の封建的なエリアでは、アパルトヘイトが終わった今でも、「白人は白人、黒人は黒人」という考えが根強く残っている。

レストランの中では肌の白い純血の白人の子供たちが遊んでいる。
かたや門の外に出ると、ボロボロの服を着た黒人の子供たちが、磁石に吸い付くかのようにこちらにやってきて「金をくれ、金をくれ」と、まるで歌舞伎町のポン引きのようなしつこさでまとわりついてくる。

そういう「現実」を見ながら育つ白人の子も黒人の子も、いったいどんな大人になるんだろうか。

「差別はアカン」「みんな平等に」という日本で育った自分にとって、たしかに南アの田舎では差別はまだ残っているんだろうと、覚悟はしていた。

でも、かれらはお互い同じ国、同じ町に住んでるのにかかわらず、人種によってあまりに違う「現実」を目の当たりに味わってしまうと、やはり気分が重くなるのであった。

 

まとめ

南アを旅していくうちに、アパルトヘイト時代の南アは、本当にロクでもない国だったことが、改めてわかる。

もうすぐクリスマス。華やかさと影を、考えてみてはいかがでしょうか。