世界一周03 インド南部篇 新たなる冒険に出発

アジア・中東・欧州編
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★ついに世界一周の旅がオートバイとともに始まった。

想像を絶するインドの道中はこれから。

果たして何が待ち受けているか!

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第3章 東南アジア インド南部・出発篇

(2000年3月 27日~4月10日)

●高原都市バンガロール
●サイババと日本人
●ヒーロー体験
●ミランダ神父との出会い
●街角のカーニバル
●インドの結婚式に参加した

インドの物価
通貨1ルピー= 2.5円(2000.03) ・ガソリン 70円
・宿(地方125円、都市部400円から。)
定食:ベジタリアンカレーとチャパティ、漬物、ヨーグルト 12.5円~60円
・中華料理の焼飯 100円
・サモサ(インド揚餃子)1ケ 2円  ・路上で売る冷や水 1カップ1.25円
・チャイ(ヤギの乳のミルクティー) 5円
・ラッシ-(ヨーグルトドリンク)17.5円~25円
・マンゴ1ケ 30円 ・マンゴジュ-ス(パック入り)25円 ・マンゴアイス 5円

 


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高原都市バンガロール

マドラス(現チェンナイ)の港より陸揚げされた、ジェベル125。このオフロードバイクに旅の全ての荷物を括り付ける。
ついに本日我が小型単車、ジェベル125とともに、このインドからユーラシア大陸を横断してはるかなるヨーロッパへ向けて出発なのだ。待ちに待ったその日がやってきた!

まず、近くのMEALS(食事、定食の意味)と書かれた大衆食堂で食事。南インドではカレー、漬物、ヨーグルト、米が出てくるが、皿ではなくバナナの葉を使う。竹の葉に包んだおにぎりのように粋である。40円。
右手を使って食べるので、食事前と食事後は手を洗う。なので日本の校庭にあるような簡素なコンクリートとタイルの洗面台が何個もある。

食事後救世軍に戻り、3月27日11時45分、マドラスを出発!楽しかった救世軍ともお別れである。ついにユーラシア大陸横断の幕開けだ!

 

混雑のマドラスを抜けて、やがて片側一車線の田舎道になる。西へ、60~70km/hぐらいのペースで走る。ついこの前まで埼玉の地元や東京の街を走っていたのだから、もう、見るもの全てが新鮮そのもの!
15時20分、バンガロールへの中間地点。標高は405mだが、非常になだらかで広大なデカン高原の傾斜のため、まるで平地を走っているようで、G-Shockの高度計を見ない限り、標高が上がった事に気付かない。まさに大陸的で、日本では味わえない。

 

バンガロールが近づいてきた。郊外では広くてきれいな庭に、きれいな工場。外資系企業の工場だ。混沌とカオスのインドとは思えない景色だった。
しかしバンガロールの街中に入ると、未舗装区間があり砂埃が舞い上がる。

19時40分、デカン高原の都市、バンガロール着。マドラスから335km。

ここではインペリアルホテルという中級のホテルに泊まる。それでも一泊430円。
今まで日本をツーリングしていた時は、宿泊代がとても高いので毎晩野宿やキャンプだったが、ここではあっさりホテルに泊まれて、貧乏ライダーにとっては、なんかすごいゼイタク気分。

インド第5の都市といわれるカルナータカ州都・バンガロールは、隣りのタミールナドゥ州都のマドラスにはない、酒場、バーがあった。何よりおどろいたのはファーストフードの店やゲームセンター、そしてデパートにはプリクラまであった。何もない田舎のハーバーシティ、マドラスから比べると、バンガロールはまるで文明都市。同じインドでもこんなに違うのかとおどろいた。
ところでインドのゲームセンターは、日本のそれと似たような店内にクーラーが効いていて、マシンは日本のお下がりが多い。1ゲーム25円。ゲーム機次第では75円と安くない。
なので他の国と違って、ゲーセンの中は別世界で、金持ち息子の社交場みたいなもの。ドアの中には警備員がいて、貧乏人は入れないのだ。

バンガロールで唯一のプリクラマシンも99ルピー(248円)と、とてつもない値段なので、これぞ日本の流行商品!と目立つ場所にありながらも、誰もやらないのか電源は入っていなかった。

バンガロールは標高870mと、一年中夏の軽井沢のような気候なのでしのぎやすく、コンピューターなどのIT産業が盛んだ。そのためバックパッカ―ではなくビジネスで来ているアメリカ人をよく目にした。

このようにアメリカナイズされた豊かな町なのか、ソフトクリームやフローズンヨーグルトがうまいし洗練されている。
この町には31アイスクリームもあるが、普通の店だとその6分の1(13円)でソフトクリームが食べれる。

そして、これまたきれいな服を着たアメリカナイズされたインドの女の子らを見た。Tシャツやブラウスにジーンズという服装で、日本とかではこういう服装は普通だが、今までインドでは女性の服装は老いも若きもサリーしか見ていなかったので、ひさしぶりにいかす女を見た気分だった

サイババと日本人

バンガロールから、北へ走る。その夜はサイババの村、プッタパルティに着いた。

標高435mに下がったのでまた蒸し暑くなってきた。

サイババの門前町とあって、店屋や宿の名前にはSAI SWETHAといったぐあいに、頭にサイの字がつく。これぞ彩の国なのか。
自分が高校生だった頃、おりしもサイババブームであった。手のひらから糸を出したりするふしぎな力があるらしいが、ぜひとも本人を見ようと翌朝サイババ神殿に行ったが、門番に「日本人は入ってはいかん。さあ帰った帰った」

といわれた。何で日本人はダメなんだと怒ったら、話のわかる職員がやってきて、入るための書類やコピーを要求された。まるで別の国に入国するみたいであった。
手続きを終えて、昼に出直すことにした。宿の人からサイババは昼にやってくると聞いたからだ。

うまいものを探そうと思っても、田舎の小さな村なのでトーストとビスケットぐらいしかない。
そして昼の一時に神殿に行くとさっきのイヤな門番が

「サイババは夕方5時にやってくる。それまで宿に戻って寝てろ」

だと。5時になったらサイババはもう帰ってしまう。なのに白人旅行者がやってくるとさあ中に入って、なんて言っている。なんでこんないぢわるされなきゃならんのだ。
頭にきたので門番を無視して勝手に神殿に入ってやった。

中にはもうすでにたくさんの信者がいた。
男女別に分けられていて、ひたすら待っているとそのうちみんな一斉に、そして一心不乱に祈り始めて騒然としてきた。

祈りが最高潮に達した14時55分、ついにサイババ様があらわれた。一万人はいるであろうものすごい信者の中を、サイババは手のひらを顔の横にかざし、ゆっくり歩いていく。サイババといい、一心不乱に祈りつづける約一万人の信者を見ているうちに

「本当にすごい・・・なんか天皇よりもすごい方に出会った気分だ・・・・」
と思わずにはいられなかった。

サイババが回り終えると、ナンバープレート9999のワイン色のBMWに乗って神殿を去っていった。さすがだが、そういえばこの村にもサイババ空港という小さな空港があるが、おもにサイババ専用なのだろう。

サイババが現れたのはわずか15分だったが、本当に霊的なインスピレーションを強烈に受けてしまった。サイババの手からは何も出さなかったけど。

外に出ると、おんぼろバスで遠くへ帰る人々や、歩いて帰る近くの人々などで溢れる。その中で私は通りで売っているサイババグッズを買った。
サイババの全身やポーズをきめた写真が入ったカードやシール、交通安全のステッカー、そして顔写真の入ったプリクラ風の丸いシール。ジャニーズも真っ青なグッズ類の品そろえだ。

そして印象に残ったのが、10円か20円ぐらいで買った黒い指輪。10円だけあって、駄菓子屋のガチャガチャに入ってるようなおもちゃみたいな指輪だが、しっかりと指輪にはサイババのカラー肖像がはめこんであった。大人の指でも入るから嵌めて歩く人もいるのだろう。

サイババの肖像が掲げられている冷水機の水を飲んでるうちに、なぜさっき門番にいやな目に遭わされたのかがわかった。

プッタパルティの人々は、サイババを生き神様のように敬う。だが一部の日本人旅行者は「ジェームズブラウンに似たファンキーなインド人」ぐらいにしか思っていないのだと思う。

ある日本人は、「サイババに会ったら、笑ってやる」と言っていた。
サイババを「生き神さま」と考えるか、「ジェームズブラウンに似たアフロの人」と考えるかはその人に自由だが、

 

真剣に祈っている人の前でガハハハ笑うなどという行為は、もう最低の冒とくである。そのせいで信者に、そして日本人旅行者にも迷惑がかかる。

村を去ると、何ヶ国語かでサイババの金科玉条が書かれている。
「旧を愛で始めなさい、そして旧を愛で満たし、旧を愛で終えなさい BABA」

と、日本語で書かれていた。久しぶりに日本語を見た気がしたが、横書きの手書きなので、「1日」というのが「旧」と言う字に見えてしまう。

ヒーロー体験

サイババの村を出発し、途中、バイクが倒れてしまいブレーキレバーを折っかいた。このときはまだ慣れていないしフル荷物なので駐車時バランスが悪くよく倒していた。

夜はGS(ガソリンスタンド)の広い駐車場でテントを張った。3年前に日本一周した時に北海道の屈斜路湖でテントを張って以来なので、テントの中にはいると屈斜路湖の温泉とか森の中の記憶がよみがえる。

しかし、ここはインド。近くのトラックからはインド音楽がやかましく、眠れたものではない。
やっぱりケチケチせず宿に泊まる事にしよう。

3/30 今日はひたすら走る。とにかく暑いので何度も途中休憩してジュースやアイスクリームを食べる。日本と違って安いのでありがたいのだが、店に入るたびに男らが寄ってくる。くそ暑いのにいちいちうるさく話しかけて来るので、さすがの自分も、もう閉口の一言。

 

バイクで旅するとどこでも沢山のインド人に囲まれて、

まるでヒーローだ in Madras,India

それでも田舎の道を走っていると、帰宅する小中学生の群れがあった。男女別に帰宅しているのだが、私やバイクがよほど珍しいのか、男子生徒50人が集まってきて、握手攻めに会う。痛いほど握手されると、時の人になった気分で有頂天になってしまう。

バイクや装備にしたって、自分の場合は世界一周とはいえ量的には北海道とか日本一周ツーリング並でしかない。
だがインドでは生活水準が違い、バイクに触った事すらない人々にとっては、ツーリングバイクというだけでフェラーリに井関農機のコンバインを牽引するぐらいに目立つのだろう。

ミランダ神父との出会い

3/31の夕方、インド半島を横断してアラビア海沿岸の町、ゴアに着いた。ゴア州は1961年までポルトガル領だったこともあり、他のインドとはちがい独特だ。教会も多く、坂のある街並みはまるで長崎のようだ。

ゴアで宿を探すが、安くていい宿がない。真っ暗になってもちっともみつからずあせり始めて、町外れの教会に入り、泊まれるか聞いてみた。すると神父さんがやってきて、中にはいるよう言われた。やった。

教会の主、ミランダ神父は1人で教会に住んでいる。缶入りチーズにライス、ワインそしてスイカがまず食事としてでてきた。インド離れした食事で、これぞ神に出会った気分だが、神父さんはなんと哲学科の博士号を取得しているインテリなのだ。

「まあドクターといっても病気は治せないけどね」と冗談を言うにこやかな神父。そしてインドでは珍しく普段はポルトガル語やそのシスターランゲージ(姉妹語)のスペイン語を話す。英語も話せる。だから神父さんの弟はブラジルに住んでいる。

神父さんはヨーロッパを旅行したけど、
「インド人にとってホテル代なんかベラボーに高いから、各地の友人の家に泊まり歩いたから、ホテルに泊まらなかったよ」
なんて話をした夜であった。

教会は楽しかった。チーズとかおかゆといった質素ではあるが3食付きだし、ビスケットやチャイといったティータイムがついてとてもぜいたくなひとときだった。

4/2の日曜日は、これまたとても愉快な一日だった。朝食にタイで買ったインスタントビーフンをつくり、バイクでゴアの市場に行った。そこには、なんと高橋由美子がいたのだ!!
といっても、タレントのほうではなく、同姓同名の女性旅行者のことです。

私のバイクを見たとき、「まあすごい!」とほめてくれたので
「どうぞどうぞ、乗ってくださいよ」
と、なかば強引に彼女を後ろに乗せ、タンデム(二人乗り)で街を走る。美人とタンデムできるなんて夢にも思わなかったなあ。二人で階段を上り、街と海を見渡す高台に着いた。その高台の上に教会があるあたり、やはり長崎観光している気分だった。

ユミコさんはひとり旅で28~30才ぐらいか。インドでゴアやボンベイを見た後、ケニアのナイロビに飛んで一ヶ月ほど旅するのだという。そして彼女は二輪免許もあるので、おかげで関心を持ってくれたんだろう。

いっしょに街を眺めてから別れたが、もうなんともいえない思いでミランダ神父の教会に戻るとミサがやっていた。ミサにきていた15才の少年、ジョシュアと話した。好奇心の強い彼は世界一周のことやインドのこと、スポーツのことなどいろいろしゃべった。

ただ、「ねえ、98年のアジアゲームで日本と戦った時、インドの0X選手がシュートしてなんたらかんたら・・・・」
といわれても、よくわからなかった。許してちょびひげ。
そして、ミランダ神父がインドの新聞を持ってきた。
「これは君の国の記事だよ」と新聞の国際欄を見ると・・・

 道央自動車道
室蘭-長万部 地震通行止

と、電光掲示板が写った写真があった。なんと有珠山が大噴火した、とかいてあったのだ。これはインドでもトップの記事でだった。

いろいろしゃべっていると夜になった。今夜は神父と二人で行きつけのレストランに連れて行ってくれた。そこの店ではカトリック主体のゴア州でしか食べれない、牛のステーキ。その他にも焼飯を注文し、2人でビールで乾杯ぢゃい!

なんとも全然インドらしくない食事だが、今までベジタリアンのカレーとかしかなかったので牛のステーキを食うとひさしぶりに生き返った気分がした。
神父さんから貸してくれたクラシックのCDを聞きながら教会の一室で寝ようとすると、今日はなんてすばらしい一日なんだろう、と感謝した。2000年4月2日は私にとって忘れられぬ日だった。

翌日、起きたらなんと神父さんはパンツ一丁だった。(笑)なんともおおらかな聖職者だが、そんなミランダ神父とも別れを告げる。旅をエンジョイしなさいと励まされた。ボンベイに向けて出発だ。

街角のカーニバル

ゴアを出発して600km。インド最大の近代都市、ボンベイに着いた。(現ムンバイー。最近はインドの町の名前が変更されている。例えばコーチンはコーチ、Kochiと変わり、四国の高知と同じだ)
ボンベイは中世の名残ある旧市街と、高層ビルが並ぶ新市街に分かれるが、その間の距離が遠く、混雑しているので全然進めない

ボンベイの旧市街は排気ガスと老朽化で朽ち果てた感じだが、新市街は新宿以上の摩天楼になっていて、それを見たら正直、たまげてしまった。あの高原都市バンガロールにも高層ビルが1つあったが、ボンベイはその巨大版といったところか。
やればできるじゃないか、インド。

ゴア同様安い宿が見当たらなかったので、ボンベイを脱出して郊外のトラックターミナルの隅でテントを張った。ボンベイはインドの中でも別格でずば抜けて宿泊費が高いらしい。
再びインドの内陸部に入る。だが標識なんてろくすっぽないのですぐに迷った。巨大都市ボンベイから100kmも離れるとまったくの山の田舎だ。

アウランガバードという町についたが、異常なくらいに暑い。なんと気温が45℃近くもあり、海岸部よりも10℃位気温が高いのだ。今までに体験した事のない殺人的な暑さなので体調が狂い、正午すぎには朦朧としてきて、苦しくて仕方がない。すぐさま宿に泊まって安静にした

夜、すずしくなったところで、宿で知り合ったひとり旅の韓国女性と一緒にインドのカーニバルを見に行く。彼女は30過ぎで、顔がジャッキーチェンに酷似していたのでジャッキーと呼ぶ事にしよう。もちろんカルカッタのジャッキーのことではない。

カーニバルの集団は、路地の中をラッパやバケツみたいなドラムを叩いて阿波踊りのように一人一人適当に、勝手に踊っていた・その熱狂的な輪に入ると、もう体が派手に動いてしまう。我を忘れて踊ると気持ちいいもんだ。気がつくとジャッキーと離れたので戻る事にした。

そうすると、子供らがこちらにどっと集まってきた。
興味深いのは、自分のまわりには男児が集まるのに、女のジャッキーだと、女の子が集まるのだ。ここまで性の区別するのもヒンズーの教えなのだろうか?

ジャッキーがしつこく女の子らにつきまとわれるので、ちょいとおどかすとさすがにあっちへいったが、それでもしつこいので、しまいにゃ近くにいたおっさんが「コラ!もうやめい!!」とサンダー発射した。

まるで下町である。

翌日も体がだるいので休養。猛烈に暑いので昼は動けなくてシェスタ。それでも体が辛く、夜には吐いてしまった。つらすぎる。

 

インドの結婚式に飛び入り参加

インド中部を横断するNH6(国道6号線)を走るが、その事故の多さといったらない。
よけきれず道路を外れて自爆したトラック、派手に横転したトラック、燃えて燃えて燃え尽きたトラックの亡骸など、なんと一日で30台以上も事故車両を見たのだ。

事故処理もはかどらない事もあるだろうが、はっきりいってひどすぎる。自家用車なんか走っておらず、大半は国産のボロトラックだけ。だからこの125ccのバイクでも楽に追い越せる。

その夜は、茶屋の外に置かれた、縄のベッドで眠る・・・が、眠れない。インドやパキスタンでは、こうしてトラックの運転手が星空の下で縄ベッドで眠るわけだが、蚊も多い。特に私の場合はさらに盗難に気をつけねばならないからこういう茶屋では眠れたためしがなかった。

しかし、百戦錬磨のインド人は平気なようで、明け方なんと顔中びっしりハエがとまっているのに、表情は硬いながらもすずしい顔して寝ていたのだ!!
まさにインド人は超人だ。野宿の達人だ

4/9 夕方走っていると、縁日を発見。日本で言う村祭りのような感じで、かき氷の屋台を見つけたので何個もむさぼり食う。5円で食べれるだけあって、けばけばしい色のシロップのわりに味がない。

かき氷を食べていると、公民館にいる人たちから中に入りなさい、といわれた。公民館の中では、祭りではなく結婚式が行われていた。その披露宴で、みんな食事をしていたので一緒に頂く。
「今日はめでたい日だ。食え食え」
と、公民館のみんなが私を囲む。らくがんのような味のないお菓子と、プラウ(スパイスで味付けされただけの具のない黄色いピラフ)が出て来て、赤いシーツの上に座って手づかみでピラフを食う。
ここでは酒はなく、水が出された。たくさんの人たちに見られ囲まれながら食べたので緊張した

そして新郎新婦の登場。タキシードにインドの冠をかぶったチョビひげの新郎と、ウェディングサリーを着た新婦。2人は美しく決まっているのだが、場内は乱れたシーツやピラフなどがめちゃくちゃに散らかっていてなんか天国と地獄でもあった

結局、騒ぎがさめず、食事後式場を出る羽目になった。というのも、主役の新郎新婦よりも、この突然やってきた珍妙なバイクに乗った得体の知れないガイジンである私のほうが目立ってしまい、誰のための結婚式だかわからなくなってしまうからだ

その夜は、華やかな式場とは対照的なインドの大地のど真ん中で野宿。
流れ星がたくさん現れて、目の前でフラッシュして、宇宙爆発のように怖いぐらいに迫力があってきれいだった。
それだけインドの田舎はとても空気がきれいなのだ。

第3章 おわり

 

15年ぶりに訪れたあの場所

バンガロールのインペリアルホテル

目まぐるしく変わるバンガロールでも、ここは15年前と変わっていない。(より汚くなった)

ホテルは改装閉店中だった

サイババ村で泊まった宿
15年前に泊まったSAI SWETHAという宿を探す。すぐとなりには別のアパートが建てられてあって、本当にここだっけか?と思いつつも、部屋にはいると見覚えのあるなつかしい空間だ!この町では、ほとんどの宿の部屋にサイババの肖像が掲げてある。
部屋はそのまま、15年前70ルピー(175円)だったのが、300ルピー(600円)と3倍以上高くなった。
そしてすぐとなりにアパートができていたので、狭苦しさと少し暗さをかんじた。

15年前とのちがいといえば、自前のパソコンやデジカメなどでコンセントを使うようになったこと。昔はコンセントを使わぬほどアナログだった。

 

アウランガバードのツーリストロッジ

2015年にインド一周したとき、コルカタ、デリー、アーグラー、エローラを15年ぶりに再訪しても面影が見つからず。

しかしこのアウランガバードで、ついに我が記憶の面影を見つけることが出来た!ついに昔と変わらぬ場所を発見!

15年前の事なので、当時のことはだいぶ忘れてはいるが、ツーリストホームを見つけ、中庭にあるテーブルを見て一気になつかしくなった。

そうだった!このテーブルで夕食を食べた事がある!

このテーブルで、ジャッキーに会ったりしたんだ。

かつて食事をしたテーブルで、ビン入りのジュース200ml、20ルピーを飲む。節分のいまは、暑くも寒くも無く、とても快適な気候。転じて15年前の2000年4月に泊まった時は、最高気温が42度以上という地獄のような暑さに苦しみ、ひたすら体調不良でのたうちまわっていたのを鮮明に思い出す。

死ぬほど暑くて病気に苦しんでいたことと、中庭の間取り、駅への道は覚えている。実際再訪すると中庭の間取りが狭く感じるのはなぜだろう。

明日は結婚式会場になるため、部屋はあいにく満室。かといってかつてあれほどいた外国人バックパッカーは、もう誰もいない。あれから15年経ち、インド人の所得も5倍ぐらいになり、お金に余裕のある中流階級以上のインド人が増えた現在、いまや外国人バックパッカー&旅行者を呼ぶよりも、結婚式会場にしたほうがずっと儲かるのだろう。

15年前1泊80ルピーだったのが、なんと400ルピー!日本円で4倍になったのだ。

 

たかが15年で、インドはあっという間に時代は変わってしまった。