旅人にとって敷居の高い謎の国・イランの旅!とても印象に残る国でしたよ。
世界一周06-2 イラン東部篇 印象に深く残る国・イランのツッパリマン参上
●イランのツッパリマン
●愉快痛快韓国女
イラン
通貨100レアル=1.38円 ・宿 300円から
定食チェロケバブ:ライス、マトンのハンバーグ、サラダ、生たまねぎ、コーラ124円
・イラン名物、ザムザムコーラ300ml 7円
(とても安く、食事すると水代わりに必ず出てくる)
・ハンバーガー 22円から ・屋台の焼き羊肉、1串 28円
・ケーキ 10円(日本じゃ「うまい棒」しか買えん。)・シュークリーム 7円
・マトンの挽肉とたまねぎの牛丼風炒めと、ナン、(おもにイラン西部) 56円
・タイヤパンク修理 138円 ・白黒TV 5250円 ・ズボン 690円
・散髪(言葉がわからんから丸刈りにされた) 42円 ・ガソリン 5円
イランのツッパリマン
5/14の翌朝、土の宿を出て、すぐにイラン入国。
厳格なイスラム国家ゆえ、普通なら荷物を調べられてエロ本はおろか、何の変哲もない水着姿の女性の写真といったソフトなものさえ没収されると聞いていた。
しかし意外なことに荷物検査がなかったから実にラッキーだった。
パキスタンもイランも全く色気のない国だが、やはり自分も環境に順応しているのか、欲求不満になったりむらむらすることはなかった。
酒と女が大好きな人は、こういう国だと気が狂ってしまうだろうが、自分は全然気にならなかったからさらにラッキーだった。
イランからは、右側通行になる。これから先、欧州(英国など除く)、南、中、北米に至るずっと先のゴールまで右側通行なのだが、日本からずっと左側通行だったので、生まれて初めて走る右側通行に冷や汗をかく。
ずっと伸びる一本道を走る分にはいいが、国境から88kmのザヒダンの町に着き、アジアハイウェーを外れ右折して町に入ろうとすると、ウオーと対向車に正面衝突しそうになった。うっかり走行車線を混乱して間違えてしまい、もう冷や汗まみれだった。
そのため免許取りたて若葉マークのようにオドオドしながらザヒダンの町を走る。そして給油したのだが、石油大国だけあって、1リットルたったの5円!11.3リットル給油したのだが、それでも60円ぐらいだった。このジェベルなら60円分で400km近く走れるから、大阪から山口県岩国までの距離になる
そしてコーラも安い。ザムザムコーラというイラン独自のブランドで、一瓶284ccと半端だが(しかもビンによって入ってる量が違っていたりする)これもなんと7円。
タダ同様に安いガソリン代で輸送コストに連動しているからかコーラもとても安くなるのだろう。
イランは反米主義を貫いているが、それとは裏腹に「アメリカの水」とも言われるコーラがアメリカのように食事と一緒に出されるのだ。しかもパキスタンやイランには当然マクドナルドのようなチェーン店はないが、小さなハンバーガー屋はいくらでもあり、とても安い。
イスラム革命後、戦中の日本のようにアメリカの物を禁止してきたが、コーラまで禁止されてはかなわん、それならなんとして抵抗してでもイラン人の我々の手でコーラをつくりつづけよう、と生まれたのがザムザムコーラなのだ。
反米とは裏腹にアメリカ的なものを欲しがる。これがイラン人の本音なのかもしれない。
さて、給油が終ると、なんとリーゼントにサングラスの男がやってきた。しかも服は黒いボンタンときている。
まるで25年前の「ツッパリ」の典型的スタイルではないか!一世代前のツッパリを見ると、日本とイラン兄弟国か、と思ってしまう。
グラサンにリーゼント、ボンタン。。
その昔、日本にの出かせぎにきていたイラン人がいわゆる「3K職場」からそのスタイルを覚えて帰った、という説もあるくらいだ。その証拠に、これから先、日本語を話す人が登場してくる。
だけどイランは、今までと違って英語を話せる人が全くいない。文字だってアラビア文字一辺倒、数字まで独特のイスラム文字だから、おかげで完全にわからず、まるで有人の宇宙惑星の町の中にいるようで、原始人のようなコミュニケーションしかできない。そのため言語ではイランが一番苦労した。
ともあれ、爆安ガソリンのおかげで、イランの旅もかなり余裕ができるし、ガンガンイランを走りまくれる。
イランの東南部は、まだバロチスタン砂漠の中になるのだが、パキスタン側より標高が高いのでいくぶんマシだが、標高が500mぐらいに下がると一気に45℃まで上昇し、またもうめく羽目になる。それでもイランでは朝の8時から夜の8時まで連日500km走るといったペースになっていく。
ある町では大変な思いをした。ホテルに泊まりたいので一晩なんぼかと、こっちは言葉わからんので必死でジェスチャーしたり紙に書いたりしてるのに、ホテルのボーイは一向に理解していない。
しまいには、「かってにセー」とホテルをとびだし、結局枯れた貯水槽の中で野宿する羽目になった。冷たい風も入ってこないし人も入ってこないだろうと思ったが、夜中に男達にのぞかれたときはやっぱり、こわかった。
イランの中都市、シラーズの手前で、塩湖があったので湖岸へ行った。そのとき、途中で急にダボット塩のぬかるみの中にバイクが入ってしまった。
アクセルふかして脱出しようとするとどんどん後輪がめり込んで、自滅していく。
泥沼にはまるとはまさにこのことで、力ずくでジェベル125を持ち上げようにも、タイヤに絡みつく極悪な塩泥と、ぐにゃぐにゃの足場なので力が入らず全く引き上げられない。
1人では無理なので、助けを求める。幸いにも男性二人が遠くにいたので、両手を高く上げて二人を呼び、私と3人で引き上げる。3人なら楽に引きあがったぞ!みんな塩泥まみれになったが、彼らはさらにホイールにくっついた泥落としまで手伝ってくれた。私は心から二人に感謝して、シーラーズにたどり着いたのだ。
愉快痛快韓国女
シラーズでは、ビザ延長の為、2泊した。イランのビザは2000年当時、最低日数の通過ビザしかもらえなかったので途中の都市で一度、または2度延長しなければトルコまでたどり着くことができない。
シラーズのビザオフィスで、申請書を書いていると、韓国女性が1人やってきた。一言二言話すと、打ち解けたのか自分のとなりに座ってきた。
それにしてもここまで旅していて「ひとり旅の韓国女性」がやたら多いことに気がついた。バラナシ、ラホール、クエッタ、そしてここで四人目。今韓国は女のひとり旅がブームなんだろうか?
その彼女、朴 善蓮さんは元旅行会社に勤めていた。30才だが、日本人や韓国人は肌や顔立ちがいいのか、チャドルで髪を覆って顔だけ出すと、まるで15才ぐらいの少女に見えてしまう。
彼女はトルコのイスタンブールからイランにきて、イランを見たらトルコに戻って帰るのだという。
そのときの彼女はトルコの若いイスラム女性流に、頭だけスカーフで覆って、長袖のYシャツとジーンズと言う格好だったが、オフィスのおっちゃんに
「きみの服装はこの国では男を誘惑する事になるから良くない。黒いチャドルはそんなに高くないから、これからチャドルを買いなさい」
と言われていた。イランでは外国人女性と言えど、非イスラム教徒でも全身を覆い隠し、顔だけのぞかせるという黒いチャドルを着用せねばならない。だから男女別に隔離される路線バスを見ると、女が乗る後ろ半分はからすの大群が乗っているみたいだった。
彼女は朴さんなので、パックとかパーク(公園?)などと呼ばれているが、パックとは実に気が合った。パックとは主に英語で話し(とはいえどお互いうまくはないが)お互い韓国、日本に行った事があるので片言の韓国語や日本語を織り交ぜて話せば、いくらでもはなせるのだ。表現しずらい時は、絵とか字を書けばいいからなおさらだ。
一緒にビザオフィスを出た。
「これからバスで、ペルセポリスに行くのよ」
「そうか。それじゃあバスターミナルまで送ってあげよう。さあ乗って乗って」
と言って、ジェベルの後ろにパックを乗せて、シラーズの町を疾走する。
「ねえ、なんかわたしたちって、周りから奇妙に見られてるようだから、これからは『ヘンな姉弟』ってことにしとこうよ」と、うしろでパックは笑っていた。
郊外を出て、少し迷ったが無事バスターミナルに着いた。まだ時間があるのでターミナル内で食事をした。焼き鳥とナーン、生のたまねぎが出てきた。
それにしても、儒教の厳しい圧力を受ける韓国女性が、なぜ海外のひとり旅、特に難易度の高いイスラム世界を旅する女性が多いのだろうか。きっと本国では報われない女性の地位から自分を解き放とうとこれらの国に旅立たせるのだろうか。
「それにしてもこんな国を一人旅するなんて、きみはとても勇敢だよ。親は反対したんじゃないの?」
「もちろんよ。オニのようにカンカンに怒ってたわよ」
といってパックは両手指で頭から角を出す仕草をした。その鬼のジェスチャーは日本と同じであった。
「でもね、もしわたしが男だったら、たぶん問題なかったと思うよ」
お互い、言葉の通じぬイランにいるだけあって、その分いろいろしゃべりまくる。日本人同士だったらいろいろ気遣わねばならんが、この場合だと実に楽だ。
バスターミナルでパックと別れた後、バイクの整備をした。昨日こびり付いていた塩泥を落とし、小屋のような修理場でスポークを張る為に工具を借り、チェーンに塗るグリースまで貸していただいた。借りるだけでも良かったのに、わざわざ手伝ってくれて、しかもタダでいいという。またまた感謝あるのみだった。
夕方から、シラーズの街を散策する。きれいなショッピングセンターやコンビニはないが、建物の地下は大理石風で、雑居ビルとはいえ宮殿を思わせる地下室には卓球場があった。イランでは卓球が人気のスポーツのようだ 。
熱心に試合してる人を見ると、あの有名な某卓球少女のように甲高い声で「サー!」なんて聞えてきそうだ。
その奥にはテレビとプレイステーションが置いてあって、何十種類もあるコピーソフトから好きなゲームができるコーナーになっている(といってもやっている人はだいたいサッカーや格闘ゲームだった)。
一階の八百屋では果物を包んだ新聞紙がなぜか8年前(1992年)の日本の新聞だった。
実に味わいのある地下室や街並みであった。
ここでクイズです。
この鉄拳バス
戒律厳しいイランにもプレステや鉄拳があるのが意外中の意外でしたが、
実は
この鉄拳バスには、イランならではのある秘密があります。
それはなんでしょう?
ヒント バスの車内をよ~く見てください。
答えは最後!
夜になり、街を歩いていると、なんとパックを発見!!
すぐに駆け寄ると、「ンマー」と驚いていた。ペルセポリスから戻ってきたようだ。
まず一緒にかき氷屋に入った後、ハンバーガーショップで、ハンバーガーにサラダ、そして必ず出てくるザムザムコーラ。それを肴にパックもパックマンのように(?)しゃべりまくっていた。
さあ、パックとも本当にお別れなのだーー。
名残惜しくも店を出て、「これで最後ね」と感極まり、深く握手をして別れたのだが—–
ここはイランだった。握手程度とはいえ、この誘惑女性と公衆の面前にて異性同士で体の接触をしでかしてしまったので、それを見ていた周りのイラン人は最後の最後まで異様な目で我々を見ていたのだった・・・
–第6章–
おわり
イラン中部編
(2000年5月17日~5月30日)
●ペルセポリスで宇宙を見た
●旅の猛者の情報ノート
●日本そっくりのカスピ海沿岸地方
イラン
通貨100レアル=1.38円 ・ガソリン 5円 ・宿 300円から
定食チェロケバブ:ライス、マトンのハンバーグ、サラダ、生たまねぎ、コーラ124
円
・イラン名物、ザムザムコーラ300ml 7円
(とても安く、食事すると水代わりに必ず出てくる)
・ハンバーガー 22円から ・屋台の焼き羊肉、1串 28円
・ケーキ 10円(日本じゃ「うまい棒」しか買えん。)・シュークリーム 7円
・マトンの挽肉とたまねぎの牛丼風炒めと、ナン、(おもにイラン西部) 56円
・タイヤパンク修理 138円 ・白黒TV 5250円 ・ズボン 690円
・散髪(言葉がわからんから丸刈りにされた) 42円
※首都テヘランのサブジー市場では西アジアでは珍しく、いろんな日本食が手に入る。
主に駐在員向けだが、市場なので値段は交渉制。もちろん少しまけてくれるが、
やはり値段は日本の1.2~2倍以上する。
このバザールでおもしろいのは、全国の地域限定の食品がいろいろおいてある。
例) 「パン」 ズバリ、パン入りの缶詰 福岡製
「ハイカラさんと呼んでください」 乾燥おからと薬味のセット 熊本製
これらは多分九州限定販売で、東京方面では見かけない。遠いテヘランで、
初めて見るものばかりだった。この「パン」にせよ「ハイカラさん」にしろ、
実は賞味期限切れで、かなりいい加減な値段がついていた。だから「賞味期限
が切れてるから安くして」と言っても「大丈夫、十分食べれるから気にするな」
とあしらわれてしまう。品質管理もでたらめ。
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ペルセポリスで宇宙を見た
インドから始めた単車の旅。パキスタン、イランとやってきて、世界遺産のペルセポリスにやってきた。ペルセポリスはペルシャ帝国の都で、2500年の歴史があった。
昨日パックが行ったペルセポリスの遺跡の入場門の前では、わんさと修学旅行の女学生達が見終えて帰ろうとあふれていた。パキスタンやアフガンでは女性の教育が皆無だったので、何かホッとする。
遺跡の中は静かで、真っ青な空の下にそびえる広大な遺跡や巨大な柱で、日本では決して見られない壮大なスケール。
背後のはげ山と遺跡の色が同じ、砂の色なので、青と黄色のみの世界なのだ。それゆえに宇宙の惑星の都市に着陸した気分だった。
遺跡の壁を見ると、落書きが彫られていた。と言っても便所のような品のない落書きではない。
「1823年ビックフット調査隊一行」とか、「ライチェナウ何とかかんとか旅団・1905」
といった調査隊からの刻印で、そんな落書き?が200年の時空を越えてはっきり残っていた
ペルセポリスはやはり、宇宙の一部なのかもしれない。
その夜は小さな町の、一番のグランドホテルに泊まる。ほかに客が泊まっていないので、半額の350円まで値切った。部屋はとてもきれいだが、TVがない。そしてシャワーが水しかでてこない。
山の起伏の激しい日本と違い地形的には気づかなかったが、この町は思いのほか標高が高く、標高2000mのホテルで味わう水のシャワーの味は、小中学校の頃、プールに入る前にあびる水シャワーと同じぐらいに辛かった。
カーペットで有名なイスファハンの町に着いた。しかしこの日はイスラムの休日、金曜日とあってゴーストタウンのようだった。かわりに街を流れる川原では家族がピクニックしている姿が目に付いた。
イランの国道は、片側1車線の道だったり、大体が高速道路だったりする。石油産国でアスファルトびっしりなのでイランの道路事情はとても良い。
しかしテヘランからあと150kmというところで、料金所のようなゲートがあって、そこには二輪車通行禁止の看板が。
思わず頭を抱え込む。この高速道路を使えばテヘランまですぐ行けるのだが、二輪車が走れないとなると下道を走らねばならず、しかもそういうローカルな道はアラビア文字しか書いてなくて読めるわけがないので迷ってしまうのは必至だ。
だからといって、インドやパキスタンの不条理な道中できたえられた私はおとなしく引き返すような事はしない。
そこでどうしたかと言うと、ゲートの端にある事務所に行って、「よそ者だから言葉がわからない、特別に走りたい」ということで、警察に捕まっても説明できるように一筆書いてもらって、特別になんとか高速を走り抜けることができた。
そうして、イランの首都・テヘランにたどり着いた。
旅の猛者の情報ノート
テヘランでは「マシュハドホテル」に泊まった。このホテルは旅人のたまり場とあって、日本人旅行者もよく泊まる。ここは地理的上、大陸をダイナミックに旅をする猛者が多いので、彼らの書いた情報ノートを見ると、とても濃い内容なのだ。
中央アジア等詳しく情報が書かれていたり、世界中の情報がかかれていたりするが、なかには麻薬のこととか、情報ノートなのに他人の中傷まで書かれていてハンパじゃない。
そんな情報ノートのなかから一部を紹介してみると・・
==ある旅行者によるブータンでの旅日記より==
「ブータンのある家では、子供らが(ファミコンの)スーパーマリオをやっていたが、マリオの無限増しょく・100UPをやってみせた瞬間、子供達の目が点に」
この無限増殖と言うのは、インベーダーの名古屋撃ち同様に有名な裏技だった。
日本では雑誌やメディアですぐに広まる裏技や都市伝説も、このヒマラヤ山脈の小さな国では口コミでしか伝わらないから、誰も知らなかったのだろうか。
何はともわれ、ツボをついた日記だった。
今回の旅でも、台湾とインド、申し合わせたかのようにそれぞれスーマリをやっていた
台湾の快楽家庭(第一章)
インドのサルべーションアーミー(第二章)
そして一番面白かったのがこれだった。
==ドリフ大爆笑==
「カンボジアの首都プノンペンでテレビを見ると、ドリフ大爆笑が放送されていた」
と言う事は、高木ブーや故・いかりや長介もカンボジア語で暴れまくるのだろうか?これには別な意味で「大爆笑」してしまった。
(注、2005年にカンボジアに行ったときテレビを見たら、台湾のケーブルテレビチャンネルも流れており、日本のマンガやバラエティ番組が中国語字幕つきで流れていた。と言う事はドリフ大爆笑もカンボジアではなく台湾の放送局からの配信だったに違いない。)
こんなふうにいろんな事も書いてあった情報ノートだったが、よく読むとクエッタで出会ったあの「バンブー氏」(第6章参照)が書いたのがあった。
彼はパンダのぬいぐるみ、バンブーを抱えながら一人旅をしている個性的な旅人だった。
バンブーを抱えたシリアの少女と子供達の写真。まだバンブーはきれいだ。
「この笑顔こそが、一番です」
と、実にほのぼのとした心温まる内容だった。
テロの報復だなんだと牙を向き合うより、こういうほのぼのとしたふれあいこそが、世界平和につながるものだと思った。
バンブー氏の行く末に幸あらんことを。
日本そっくりのカスピ海沿岸地方
ひとまずはテヘランを去り、北のエルボルズ山脈を越えてカスピ海に行く。
テヘラン市街からも残雪が残るエルボルズ山脈がみえる。だがテヘランは標高1300mに関わらず昼間は36度もあって、乾いた夏の暑さだった。
何度か道を間違えながらも山脈のふもとに入る。トンネルの手前に虎や兵士の絵が描かれており、近くにコマンドーの基地があることがわかる。
いよいよ山を越えるのだが、標高2000mあたりから急な峠越えの道になる。2500mから残雪が出現し、ついに標高2870mのエルボルズ山脈の峠に着いた。気温14℃。夏そのもののテヘランと違って峠は残雪が多くガシガシと遊ぶ。
峠からはカスピ海へと一気に下る。絶壁をつづら折に下るので、下を見下ろすと失禁しそうになるくらいに怖い。
そして峠を下りきると、森が出現してきた。今までずっと砂漠などの乾燥地帯を走ってきたのでその緑ぶりに驚く。
南のテヘラン側からエルボルズ山脈を見ると、乾燥地帯特有のハゲハゲ山だったが、カスピ側から山脈を見ると日本のように広葉樹に覆われた山になる。
つまり山脈を隔てて、乾燥地帯から日本同様の湿潤地帯へと、気候、景色ががらりと変わるのである。
峠を下りつづけて、町にぶつかり、やがてカスピ海に到着した。カスピ海は世界最大の「湖」だが、見わたすと太平洋のように広く、なめてみると海水のようにしょっぱい。ここは大陸の中の海。
標高は海面より低いマイナス28m。エルボルズの峠からカスピ海岸まで90kmだが、標高差は3000mもあるのだった。
海岸に立つと、テヘランとは全く違って冷たく湿った空気が吹いており、標高マイナスとは思えない冷たさで、同じイランとは思えないほど、まるで別の世界に来たみたいだった。
これより今までの道中とは全然違う別の世界に突入したわけだが、進路を西に変えて海沿いに走る。暗くなって宿を探してみたが高いのしかなかった。
寝床を探していると、村人が海の家を案内してくれた。海の家の主人にこころざしのこづかいを払い、屋外のでかいテーブルの上で寝た。
5/23。翌朝も、カスピ海岸を走る。
イランの道は石油大国なので広々としているが、このへんに限っては道が細い。これが日本にそっくりなのだ。
周りの景色も、建物も、まるでサハリンとか北海道あたりの、昔の開拓漁村を思わせて、なんか日本を走っている錯覚に陥る。
そしてもっと驚いたのが、田んぼだった。
水田を、一本一本田植えしているのだが、女はなんとクリーム色とかのいろんな柄のほっかむりをして田植えをしているではないか!
このイランでは黒いチャドルが義務なのに、田植えの時は例外なのだろう。これは日本の農民と全く同じ格好なので、イランのカスピ海沿岸の田んぼを見ると、100%日本と同じなのだ。
そういえばあの海の家の前では、「釣りキチ三平」のような帽子をかぶって釣りをしていた。そしてそこからエルボルズ山脈を見上げると、日本のような緑豊かな山と川が見える。
この山といい川といい、釣りキチ三平といい、まるで四国とか東北の田舎そのものだった。
それにしてもなぜ、カスピ海沿岸がこんなに「日本」的なのだろうか。カスピ海沿岸にも、台湾と同じ「哈日族」がいるのだろうか。
台湾哈日族は日本の流行や文化などそっくり受け継いでるようだが、このイランの場合は昔の日本の農村そのものと言う感じで、どっしりとした日本ぶりだ。
その答えをとく鍵は、ズバリ気候にあると思う。イラン北部のカスピ海沿岸は、他のイランの地方と違い、日本と同じ温帯湿潤気候で、さらに緯度も北緯37度と、富山県や新潟県と同緯度になる。そして海と山に挟まれているところが日本海沿岸と似ている。
このような日本の気候風土と同じところは韓国や中国の一部とここしかない。
だから日本から遠く離れたカスピ海沿岸地方で、タイムスリップしたような日本を見るようだった
イラン西部編
●チャドルに隠された秘密
●標高マイナス28mと2900mのおにぎり
●日本で働いたイラン人たち
●山の兵士と黒い濁流
●トラックの下で青空キッチン
チャドルに隠された秘密
カスピ海沿岸の都市、ラシュトについた。ここではまっさきに警察署に寄った。2度目のビザ延長にトライするためである。場合によっては延長は一回しかできないが、ここで延長が成功できれば余裕を持ってイランに出国できる。銃を持った兵士が見守る中、入る。
手続きのため、町を走り回り、やっとコピーとかを揃えて戻ると、
「これで最後だ。もうこれ以上延長はできないぞ」
と言われたが、5日間延長する事ができた。やった!これでテヘランに戻っても、充分ゆとりがある。
夕方になると、ラシュトの町は男も女も人が増えはじめてくる。たかだか30~40万人ぐらいの地方都市なのに、渋谷の109の駅前交差点のように人であふれてくる。
娯楽の少ないこの国では街に出歩くことが楽しみなのだろう。
市場は、食器専門店とか金物専門店、文房具店、ゲームコーナー(プレステのコピーだが)、そしてエルボルズの山の幸やカスピ海の海の幸など、所狭しと市場に濃縮されていて、デパートのようにいろいろ売っていておもしろい。
この市場は20時になってもまだ明るく、すごい人ごみだ。まるで大みそかの夕方6時のニュースで中継されるアメ横のような活気だった。
翌日の5/24は、マースーレという標高1000mの高原の村に行った。
途中の川沿いにはキャンプ場があって、まるで奥秩父の青少年自然の家みたいだった。
頂上のマースーレは山あいの温泉街みたいだが、温泉はない。
その次にカスピ海の軍港、アンザレに近づくと道路にはイランのアラブ文字とロシアのキリル文字の標識が見える。北海道のような雰囲気。港には灰色の軍艦やレーダーで装備した巡視艇も見える。
キリル文字の標識といい、巡視艇といい、アンザレはロシア船と自衛艦の停泊する舞鶴港を思わせた。
そのアンザレの町の中心部に、ケーキ屋さんがあった。そこでシュークリームとケーキを買い、バコバコ食べる。うまい!そして何個か買っても、45円ぐらいだった。
なんと日本の15分の一の値段で、しかも日本のケーキ屋で食べるのと変わらない味!
イランでは酒もだめなら娯楽も少ないし、女性は真っ黒なチャドルを着用しなければならない。一生ビキニなんか着る事はないのだから、考えて見ればダイエットして体型を気にする必要というのが全くないのである。
だから甘いものを食べることがイラン人にとって唯一の抑圧された欲求不満の解消法なのだろう。自分自身もイラン中にあるケーキを堪能したので、インドでガリガリだった体重もだいぶ戻ってきてしまった。
アンザレからは、本来ならこのままトルコを目指していたが、ラシュトにて2回目のビザ延長が成功したので、来た道を戻ってテヘランに戻る事にした。
ラシュトを過ぎ、行きの時に泊まった海の家にまた泊まった。翌朝、ながめのいい海を見ながら、自炊をする事に。テヘランのサブジーバザールで買った日本風の米を炊く。
おかずは同じくサブジーバザールで買ったかつおふりかけときざみのり。そして海の家でもらった大きいえんどう豆とザムザムコーラ。
米が炊けた。少しモミが混ざっているが、なかなかの日本風米で、うまく炊けた。
標高マイナス28mと2900mのおにぎり
さあ、いよいよ3ヶ月ぶりの銀シャリだ。銀シャリなんて言葉は死語だけど、3ヶ月ぶりに日本米が食べられるのだ。
まるで戦後間もない日本人の生活みたいにモミが混ざっている御飯さえ目を輝かせる。
食べてみると・・うまい!!
たかがふりかけめしなのに、こんなにうまく感じたことは今までになかった!
飽食日本にいるときには気がつかなかった、食べ物のありがたさと望郷の念を思った。
まずこのカスピのシーサイドで半分食べて、残りをおにぎりにしてエルボルズ山脈の峠で食べる事にした。
海で遊んでのんびりしてから海の家を13時30分出発。今度は反対側から山脈を越える。
急な迫力ある山道を登る。夢のようなカスピ海ともお別れだ。
頂上付近になるとハゲ山になるが、そこで湧き水を発見!車でイラン人が大勢やってくるのでまるで日本と変わらない。「イラン名水百選」といったところだ。
再び峠についた。乾燥イランと湿潤イランを隔てる山脈の峠で、さっき汲んできた湧き水とふりかけおにぎりを食す。少しパサついてきたが、やはりたまらなくうまい。
海抜マイナス28mのカスピ海を見ながら、そして2900mの峠から絶景の谷を眺めつつ食べるふりかけめし!これぞ我が人生最高のふりかけめし!
そのとき峠では、ホンダCB125風の実用的バイクで、峠小僧らが攻めて?いた。ウイリーを披露してくれた。国や単車のタイプは違えど、やってることは日本と同じなんだな。
実用車で攻めるシーンを見ていると、きっと1960年代前半の日本のバイクシーンもこんな感じだったに違いない。
18時をすぎたのでテヘランに下る。川原ではたくさんの家族がピクニックしている。イランやトルコでは何人かの家族でのピクニックが好きのようだ。
テヘランまであと40km。山を下りたところには丘の上までびっしりと白い住宅で覆われていて、なんか異様な風景だ。大都市テヘランのベッドタウンなのだろうか。
21時頃、テヘランに戻った。だけど大都会はダメだなと思った。広すぎるからどこへ行くにもバイクが必要だし、ホテルの周りは車のパーツ店だらけであとは何もない。シラーズやラシュトなら、歩いて全部見れるくらいの街の規模だからとてもおもしろいのだ。
翌朝の5/26、ジェベル125でサブジーバザールへ行き、日本食品ウォッチング。日本食を買い足したら、次はデパートに入った。この国は石油資源がある割に、イランイラク戦争時の名残を引きずっているのか、中は薄暗くて30年前の古いデパートみたいな店内だが、それでもイランでは大型デパートだった。
日本で働いたイラン人たち
テヘランからは、トルコへと走る。荒涼としてだだっ広いハイウェーを走り、イラン北西部の都市・タブリーズに着いた。町の中心にある小さな遊園地付きの公園を歩いていると、「ニホンジンデスカ」と、中年夫婦に声をかけられた。
話によると、夫は2年間、前橋の現場(工事現場)で働いていたと言う。そういえば、彼のように日本で働いていた事のある人にイランでは何人も出会った。
彼のほかにも、レストランで働いていた人や、解体作業をしていた人、東京近郊の綿工場で4年間働いていた人など・・・
日本がバブル経済絶好調の時代、日本とイランはビザの相互免除をしていた時期があったので、日本人はビザなしでイランに入国できたが、その代わりに大量のイラン人が金と自由を求めて日本へやってきた。
当時人手不足の日本で、モグリでオーバーステイしながらも、日本人がやりたがらない3K仕事をして社会の底辺を支えていたのである。
やがてバブルの崩壊とともに、ビザ相互免除協定も崩壊。モグリのイラン人も引き上げていった。今なお日本に住み、結婚して根を下ろしているイラン人もいるが、今ではイラン人に代わって日系ブラジル人がやってきている。
日本で働いていた彼らは、私の姿を見てひさしぶりに日本人を見たと言って、あの頃の日本に思いを馳せるのだろう。テヘランで出会った、4年間綿工場で働いていた人には、とても親切にしてもらった。くどい親切ではなく、本当にさりげなく、自然な感じで親切にしてくれたのでとても助かった。
彼は言葉も場所もわからなかった私にいろいろ日本語で案内してくれたわけだが、きっと反対に彼も、言葉のわからぬ見知らぬ地の日本で、苦労したりいろいろお世話になった事への、そのままの恩返しなのだろう。
心からうれしいので私も、日本に帰って困っている外国人がいたら、是非彼と同じような親切返しができれば、と思う。
山の兵士と黒い濁流
タブリーズからトルコ国境へむかったが、途中で大いに迷ってしまった。トルコではなくアゼルバイジャンやアルメニアのほうに行きそうになったり(今思うと言っても良かったけど)見ず知らずの山の中に迷い込んで兵士に捕まったりしたが、やっとの思いでアジアハイウェーに戻る事ができてホッとした。
近くの川を見るとココアのような色の濁流が激しく流れており、青空と黒い濁流のコントラストは地球というより、魔界の国みたいで実に不気味だった。
国境近くの町、マクーに泊まる。街の両側は絶壁で囲まれている。圧倒的な絶壁に挟まれた町は、いかにも天然の要塞、国境と言う雰囲気がする。
街の映画のポスターを見ると、1950年代の白黒の日本の時代劇、つまりサムライ映画が上映されているようだ。
こんな小さな映画館でも日本映画があるのは驚きだが、当然ポルノはおろか、お色気のある映画すら上映されない。それでもイランでもテレビを見るとCGを使ったアニメも放送されてるし、近代化が進められていたイスラム革命以前はなんとキューティーハニーも放送されていたそうだから、いまだイスラム主義の国家とはいえ、イランも案外と近代化を体よく取り入れていると思う。
トラックの下の青空キッチン
5/30 出国の日。 ビザはこの日で切れるのでいやでも出国する。イランは17日間いたが、5090kmも走ったのだ。よく走り、たくさんのものを感じたイランの道中。だからとても濃くて印象深い17日間だった。しかもイランで使ったガソリン代はたったの777円。
少しハイウェイを走ると、町に入り、そして国境の門で行き止まりとなる。ここがイランの終着となるわけだが、この国境の町から、ノアの箱舟伝説で有名な名峰アララト山(5165m)がでっかく目の前に見えた。
門からさらに1km走った丘の上が国境。タンクローリードライバーがイミグレが開くのを待っていた。実は彼はさっき述べたように、日本で解体の仕事をしていたのだった。
現在は彼はトルコへガソリンを運ぶ仕事をしている。
そんなわけで、日本の話をしながら彼らと食事をした。といっても彼らは自炊をしているのだ。イランやトルコのTIRドライバーは、日本の長距離トラックと違って食事は自炊しているのだ。フライパンや鍋、コンロ、水、食料をトラックに常備しており、待ち時間等を利用してクッキングするのである。これぞ完全な「動く家」である。
料理している姿は実に楽しそう。自分もこれからヨーロッパなので、食費を切り詰める為にも自炊をしなくちゃならない
そして食事が出来上がった。トマトのオムレツに、薄っぺらのナーン。シンプルだが青空の下、アララト山の下でみんなで食うと、箱舟パワーが効いて実にうまい!
そういえばイラン各地の街の屋台では、ボイル鍋1つだけでゆで玉子とゆでじゃがいもを売っていた。
熱々のゆで玉子やじゃがに塩をかけて食べたのだが、それもすごくうまく感じた。これらは日本でも食べられるものだし、慣れないイラン独特のコテコテの味付けされた料理に食傷気味だったので、ひさびさの超基本的な味なうえに、なにより地元の滋味あふれる玉子やじゃがいもなので、さらにさらにうまく感じるのだろう。
ゆでじゃがとゆで玉子は、まさに国境のない「世界共通の食べもの」だ。
と、そう思いつつナーンにオムレツを摘まんで食す。最後にナーンで、拭き取るようにフライパンに残った汁も一緒に食べる。実に合理的でムダがない。
食後は熱いチャイ。チャイを飲みつつ会話するのはまさにアラブの文化である。
国境が開いた。一足先に彼らと別れ、出国した。いよいよトルコだ・・・・
–第7章–
おわり
おまけ写真
イランで見かけた映画のポスター
見てください!
右端の人、目がいっちゃってるんですけど
この某・青いネコのように
しかも、真ん中の二人を見てると、
8時だヨ!全員集合のヒゲダンスを思い出すんですわ。
みなさんもそう思いませんか?
追記:クイズの答えの発表です
バスには、鉄拳3!
ということは、イランにもプレステがあるということだった。
しかしインドとパキスタンにはプレステはなかった。
やはりイランのほうが近代的なってきている。
で、答えはというと
前半分が男専用席、後ろ半分が女専用席。
近代的なゲームを広告しておきながら、中は完全に分離されている。
日本やインドでも女性専用車はあるけど
ここまでしっかり分離するのは、宗教的なイランならではです。