世界一周06 パキスタン篇 インドの隣は異文化!高原都市と砂漠の黄昏

アジア・中東・欧州編
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パキスタンは、インドから来ると全くの異文化だった!そんな摩訶不思議な国の物語。

●旅のつわものが集まる都市
●世界最悪の道と怪しい日本語

パキスタン
通貨1ルピー= 2円(2000.05)  ・ガソリン 55円  ・宿代はインドと同じぐらい
定食:マトンカレーとナン、サラダの定食(おもにパキスタン西部) 80円
・手作り風ハンバーガー&ポテト(ラホールにて) 106円
・チャイ(ヤギの乳入りミルクティー) 6円   ・ホットケーキ 20円
・さくらんぼうかんずめ(イラン製) 48円

※西アジアでは、チャイ(茶)がよく出され、文化のひとつになっている。パキスタン西部のバ
ロチスタン砂漠を境に、インドやパキスタン中央のミルクティーのチャイから、 パキスタンの
西端、イランやトルコの氷砂糖を入れるストレートティー式のチャイに変わる。

パキスタン入国

そしてインドからパキスタン入国。国境付近は田んぼだらけで、大陸を越えて旅する人向けの古本屋の小屋がポツンとあった。やはりこの国境は旅行者しか通らないようだ。

国境からゲートシティのラホールまでたった30km。パキスタン第二の都市で人口400万人。そこへ向かって走ると見わたす限りの田んぼからどんどん民家が密集してくる。

インド側はシーク教だらけだったが、国境をちょっと越えただけで人々は白一色のイスラム服を着ている。あまりの急変ぶりにまるでワープしたみたいだ。

ラホール市内に到着。と同時に夕立が降ってきて足止めを食う。インドでは乾季だったので全く雨が降らなかったのだ。

だが北緯13度のマドラスから北緯32度のラホールまでやってきた。同緯度で言えばグァム島から宮崎市まで来たようなものだから気候も変わって当然だろう。

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旅のつわものが集まる都市

ラホールの宿はドロボーの巣窟だというので、まっとうなミッション系の宿探したが、救世軍もYMCAも閉まってたので唯一のYWCAに泊まった。

これまでで見た一番の記録は、6人乗り。

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YWCAに入るやいなや、なんと日本の国際ナンバーをつけたジェベル250XCを発見!
中にはその持ち主、横浜のT.Yさんがいた。

ジェベルXCのY氏は、アメリカ横断、マイアミからリスボンへバイクを空輸してここまでやってきた。約43000kmの長旅。北部パキスタンを回ってインドに行くという。

何せ後にもユーラシア大陸で日本人ライダーに出会ったのは彼だけだったので、互いに情報を教えあうと、これからのアジア横断に希望と自信が出てきた!彼はちょうど自分の予定ルートを通って来たので、なおさらの事だ。

そしてY氏は、私のことを知っていたのだ。日本にいた頃、私は日本の貧乏ツーリング日記をバイク雑誌に寄稿していたが、Y氏はそれを読んでくれて、「貧乏ツーリングを極めているすごい人だな」と思っていたそうだ。世界の果てでもつながっている。ありがたい話である。

他にも、ひとり旅の若い韓国人女性や、ロンドンから10ヶ月でここにたどり着き、中央アジア経由でオーストラリアの自宅に帰宅するという豪傑サイクリスト、中庭にはバスを改造したキャンピングバスでインドに向かう二人のトルコ人がバスで寝泊りしていた。

大陸横断する際、インドパキスタン間の国境は先日通った一本しかなく、横断するとなるとどうしてもラホールを通り抜けなくてはならない。それゆえにこの町は濃い旅人が集結するのだ

そのバスのトルコ人と沸かしたトルコチャイ(ストレート)を飲む。彼らはイスラム教徒だが、ちゃっかりYWCAに泊まるあたり宗教を越えた場所だ。

このYWCAの門番だってメッカに向かってお祈りしとるではないか。

それにしても、この国は全てがずさんだと思った。イスラム国家なのに関わらずこの町はドロボオが多いのはガラが悪い証拠。インドだと案外きちんとしているところもあるのだが、ここにはそんなものはない。興奮と環境の変化、たまったストレスや疲労でささいなことでいかりが込み上げる。ある意味精神病だった。

インドの交通マナーも最悪だったが、パキスタンのラホールは最悪なんてもんじゃない。極悪だ。
交通法規も何もなく、濁流に流されるかのように何度もぶつかりそうになりつつ、何とか事故に合わず宿に帰還できた。もう恐怖そのもので、本当に街中を走るのがイヤになったほどだった。

世界最悪の道と怪しい日本語

ユーラシアの魔都、ラホールから高原都市のクエッタまで走る。これからの道は世界最悪の道のひとつと言われる。なぜなら、交通マナーはインド並だが、車は日本の中古車。それゆえにスピードが出るうえに無理な追い越しが多いから〇〇〇〇に刃物だ。

インド国産車は50~60km/hぐらいしか出ないので、そういう意味ではインドのほうが危険度はまだマシだった。

南はムルターン、北は首都イスラマバード。どこか標識が日本と似ている。

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パキスタンのハイウェーはだいぶ舗装されているので80~95km/hで高速走行する。検問が途中であったが、何かと思ったら「ギフトくれ」だと。

ワイロなんて結局やらなかったが、時間が無駄になり怒りが収まらなかった。

ムルターンの町に入る。こんな国でもブロックバスターのレンタルビデオ店があった。だがここのスーパーマーケットはすごかった。

薄暗いスーパーの中と外にそれぞれサブマシンガンを装備した警備兵がいたのだ。略奪に備える為とは言え、これが日本だったら恐ろしくて誰もこんなスーパーに入らないだろう。

夜、インドと全く同じスタイルの茶屋の野外の縄ベッドで眠る事にした。さっきの恐怖のスーパーで買い物したんだがロクな物が売っていなかった。

せめてラーメンが食いたかったが、先ほどのスーパーではそれすら売っていないので、苦肉の策でクノールの中華スープの中に、パキスタンのパスタ工場製のチャイニーズヌードルの麺を入れるというシロモノを作る事にした。

単車のガソリンタンクからガソリンを抜き、それをコールマンのガスストーブに入れる。同じガソリンが使えるから経済的だし無駄がない。コンロのポンプでシコシコ空気を入れて着火。そして先述の材料でラーメンもどきを作った。

その間に茶屋にいた男達がぞろぞろよってくる。見世物じゃないゾと思いつつも、まるでデパートの調理実演販売のようになってきた

その男達に囲まれ、見られつつも食事した。はっきりいって落ち着いて食事ができぬ。そしてラーメンもどきを食べると「ま、まずい!」

世界一周で始めての自炊だったが、ふんだりけったりの大失敗で終った。周りの男に食わないかと勧めたが、誰も食べようとはしなかった。

その後冷たい井戸の水で身体を洗い、寝た。

1日 754km走行

翌朝(5/8)朝5:45に起きる。日本の夏の早朝のようなすがすがしさだ。山羊のミルク入りチャイを飲むと元気いっぱいじゃー!
「今日はメッタメタに走るゾー!」

7時20分に出発。インドと違って田舎でもハイペースで走れる。途中の町では中古の日本車が走っているが「野沢幼稚園」とか、「暮らしのデパート・孫六」なんてそのまま車にペイントが残っていて、笑える。

しかし、中には手書きの字で「仙台市福沢町5-42」(こんな地名は存在するのか?)など、意味不明な怪しい日本語で書かれている。しかもおかしい事に「(株)大豊」と書かれたワゴン車を何台も見たのだ。

ようするに、こうしたいかにも業務風な日本語ステッカーをコピーして、それを適当に貼っておけば、でたらめだろうがなんだろうが漢字を知らないから「これは正真正銘の日本で使われていた日本車ですよ」と、日本ブランドを自慢できるのだろう。可笑しく、そして物哀しい。

12時40分。327km走行。猛烈に暑い。早くすずしいクエッタに行きたい。

14時。シカールプルで西へ進路を変える。そこからは景色も変わり半砂漠の地平線が広がる。日本で見ることのできない荒涼とした風景に酔いしれる。

18時20分。623km走行。クエッタへの高原に入る峠への入口。日中気温は45度もあったが、今まだ42度もある!峠を登るうちに日もくれて標高が高くなりうんとすずしくなる。

21時30分。754km走行。ついにクエッタ到着。クエッタは標高1600mのバロチスタン州都である。気温27度まで下がった。

ラマダンの断食ではないけど今日1日、朝から夜まで何も食べず走りに夢中で走りずめだったので、ホテルではナーンと油っこいフライドチキンをむさぼり食う。それゆえ翌日は疲労と到着した安堵のため1日寝るだけだった。

 

パキスタン西部・高原都市クエッタとバロチスタン砂漠の黄昏

●クエッタの摩訶不思議
●砂漠の黄昏
●竜巻にのみこまれる
●国境の村は関所の村

(2000年5月9日~5月17日)

 


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クエッタの摩訶不思議

パキスタン西部のバロチスタン州都クエッタ。標高1600mの高原都市。

辿りついた時は朝から夜まで何も食べず走りに夢中で1日754kmも走りずめだったので、それゆえ翌日は疲労と到着した安堵のため1日寝るだけだった。

ムスリムホテルの部屋。部屋についていたペンキの臭いが、今でもあの日を思い出す

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長い眠りから覚めて、泊まっているムスリムホテルの部屋を出る。クエッタの高原の空はとても青く、まるで秋の空だ。

パキスタン西部のバロチスタン砂漠越えとイラン入国のために、この町で準備を整える。
まずはオイル交換。マシン自体は特にトラブルがないので砂漠越えでも問題はなかろう。

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そして次は闇両替。闇イコールやばいというイメージがあるが、日本でも戦後の闇市を見れば判るように、イラン国内の公定レートと実勢レートでは差が大きいので隣国パキスタンでイランの金を手に入れたほうが得なのだ。このホテルで知り合った日本人旅行者と一緒に行くことに。

彼は東欧や中東を横断してきたのだが、ユニークなのはいつもパンダのぬいぐるみを抱えて旅しているのだ。幼い少女みたいにパンダを抱きながら歩く姿はとても個性的で印象に残った。彼のいとしのパンダ、バンブーも長旅でだいぶ黒ずんでいた。

おかげで一緒に歩くと、注目の的!なんか人気者になった気分だった。闇両替では50ドルをイランの札に換えた。

クエッタではアフガニスタンのゲートシティだけあってアフガンの札も扱う。当時はまだタリバン政権下でアフガンの経済が破綻同然ゆえにお札の価値がないのか、闇両替のくせに道ばたで堂々と眩しいばかりにアフガンの札束を豪快に並べていた。

アイスクリーム屋に入ると、中はおっさんやじいさんだらけだった。客層がまるで焼き鳥屋や赤ちょうちんみたいだが、ここではアイスクリームは女子供の食べるものというより男の食べ物、といったかんじか。

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そんなヒゲ面の男達がまるで学校帰りの女子高生のようにアイスやジュースを飲んでいた。
またも印象に残るシーンであった。
なお、カーテンで区切られた奥の部屋は、女性専用となっており、酒や女に厳しいイスラムの掟をこの国で見せつけられた。

ここのアイスクリームはとろろいもみたいな外観で、もちもちっとした舌ざわりも最高だ。日本でも売れば間違いなく大フィーバーするだろう、と思っていたが、
帰国後に案の定「トルコアイス」とか言う名前でコンビニとかですでに売られていた。

店の前でアイスをこねて売ってるあんちゃんはアフガン人らしいが、顔立ちが日本人に似ているので親近感があった。そのまま原宿とかで売れば収入が何十倍にもなりそうだ。

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夕方、町なかで男に、日本人か?と尋ねられた。
話によると男は車の取引の為、これからUAEのドバイ、大阪と飛んで、愛知県で3ヶ月滞在するのだと言う。

そういえばクエッタはHILUXとか PAJEROなどの四駆をたくさん見かけた。しかもどれもきれいで新しく、まだ何百万円もする価値のものばかり。国民所得もインド並かそれ以下だというのに、なぜこんなに日本の高級四輪駆動車がたくさんあるのか不思議でならない。
四駆の中古でもパキスタン人の何十年分の年収になるわけだし。

「こんなパキスタンなんてもういやだ。早く日本へ行きたい。イランのほうがここよりも美しくてきれいだぞ」

と、色気も自由もない生活に不満があるかのように男はぼやいていた。イスラム原理主義的ゆえに町では女の姿が全く見かけない。町を歩いているのは男、男だらけ。女はどこへ消えたのか?やはり家の中で「ひきこもり」を余儀なくされるのだろう。

こんな男だらけの国はこことアフガンくらいだろうか。イランに入れば黒チャドル着用とはいえ女はたくさん歩いている。男だけのキビシイ国だと、性欲を満たす事ができずホモに走る者も多い。

イスラムの戒律ゆえにホモに走るのはなんとも哀れな性だが、日本から来た旅行者はやはりホモに付きまとわれるものも多く、中にはレイプされた旅行者までいて、もっと哀れだ。

街全体がハッテン場のようなホモエリアでも、私の場合は一度も寄ってこなかった。
それはホモよけとして、口ひげをはやしていたからだ。イスラムの国ではヒゲがないとおかまとみなされて?ホモにもてまくり最悪の場合貞操の危機を迎える。

とはいっても口ひげはすぐに生えるものではないので、ヒゲが伸びきらない数泊程度の短期旅行者はやはりホモの洗礼を受けざるをえないのである(笑)

(※この2ヵ月後の2000年7月にクエッタ市内の市場で爆弾テロが発生、10人が死亡。その翌年911の米国同時テロが発生し対タリバン戦の為、アフガンへの中継基地としてクエッタも有名になった)

砂漠の黄昏

クエッタで4泊したので、好調なペースで砂漠越えができそうだ。

これより先の、クエッタからパキスタンイラン間の国境までの600kmは全行程がバロチスタン砂漠である。

過酷でもありロマンのある、ユーラシア大陸でもハイライトのコースである。

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いよいよ砂漠だ、と出発したはいいが、途中で道を間違えて3時間もムダになってしまう。食堂で肉入りカレーとナーン、サラダの昼食。砂漠に入ると、標高も下がり猛烈に暑くなる。気温はなんと47℃。当然意識が朦朧としてきて、動きもジャイアント馬場のようにスローになる。

出発前の2000年1月、ジェベルを船便で送る前に真冬の赤城山で走行訓練をしたことがある。

標高1450mの山頂の雪と氷の道路を、気温-14℃の中で走った。

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朝になって太陽が出て寒さも和らぎ、雪を溶かして沸かしてカップラーメンを食べた時のうまさは世界一おいしいと思ったほどだ。

気温差60度以上。死の世界とも言える激暑の砂漠にて朦朧とした頭の中で、そんな白い極寒の記憶がよみがえる。

16時、クエッタから145km走ってようやくヌシキというオアシス集落に着く。茶屋でコーラなどを飲む。それでも足りないので水をもらうが、少ししょっぱいのだ。だが砂漠ではどんな水でも貴重だ。そして暑さのためもうひっくり返ってア~とかウ~ぐらいしか声が出ない。気温はまだ43度もある。

ヌシキから、クエッタと国境との中間にある町、ダルバンディンに向かう。途中砂漠のど真ん中で止まってみると、聞えるのはかすかな風の音だけだった。まさに無の世界を身体で感じる。

ダルバンディンに近づくと、砂丘が多くなり、いよいよ砂漠らしくなる。だが道路まで砂があふれてこけそうになる。

日も沈む・・・砂漠の黄昏・・・

オートバイを止める。砂丘に登って、沈んだ夕日に向かってウオヲー!!と叫ぶ。生命の証明と喜びを身体で表現してやった。
超自然力が支配する大自然の前に、理由はない。雄叫びも本能のおもむくまま故なのだ。

クエッタから328km。クエッタと国境との中間にあるオアシスの町、ダルバンディンに到着した。暗くなり始め、周りを砂漠に囲まれて、砂で覆われ、荒涼とした町並みは、まるで北斗の拳に出てくるような街だった

町のホテルに泊まり、1階のレストランで食事。すると昼食時と同じカレー汁とナーン、サラダが出てきた。この組み合わせこそがバロチスタンの定番メニューのようだ。ここのカレーはインドのと違ってうまい。

部屋は安くてきれいだが、室温は37度もあり、停電で扇風機が止まると地獄だった。今思うと砂漠の真ん中で野宿したほうがよかったかもしれない。

 

翌朝、この砂漠の町を歩く。パキスタンの中央やクエッタでは日本の小型バイクしか走っていなかったが、この町で見かけたのはロシア製の350ccバイクだった。ロシアのバイクはここでははじめて見たが、でかいわりに黒煙をドバドバはきながら走っていた。

10時30分ダルバンディンを出発。町外れの空き地でたくさんのドラム缶が並べられていて給油できる。ガソリンはイランからのものなので、イラン本国よりは高いがパキスタン中央よりかなり安い。ダルバンディンはさしずめイラン圏内といったかんじだ。

ダルバンディンから70kmの、砂漠の真ん中の小屋でチャイを飲む。ここのチャイはストレートチャイで氷砂糖をいれるのだが、ここのストレートスタイルは、これから行くイランやトルコなどのスタイルで、今までのインドやパキスタン中央のミルク入りスタイルとは違う。

つまり、このあたりがチャイ文化の境界線だったのだ。

竜巻にのみこまれる

このバロチスタン砂漠は、超自然力が支配している。
竜巻や蜃気楼が何度も出現する。走っていると遠くに何個も竜巻が視野に入るくらいだ。

そして、その竜巻が砂を吹上ながらこっちに接近してきた
「む、いかん!」
あっという間に竜巻にヒットしてしまった。

 

 

竜巻に巻き込まれると、ブワーと単車もろとも反対車線に吹き寄せられた。小型の竜巻なので転倒もせず無傷ですんだ。超自然力というものを身体で覚えさせられたわけだが、命を失わずに済んだだけでも幸いだ。

さらに走ると、エアーズロックに似た、砂漠の中の巨大な一枚岩を発見した!

ここにいけばオーストラリアに行かなくてもエア-ズロックが見れる!

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・・・といっても、ここよりも本場のエアーズロックに行った方がはるかに楽なのだが。

ダルバンディンから167kmの、ノックンディという集落に着いた。クエッタから495km、国境まであと113km。
ここでおしるこを薄くしたような味の、肌色の甘い飲料を飲んだ。これぞ砂漠の味といったところで、乾ききった五臓六腑に沁みわたった。

ノックンディからさらに無人地帯を走る。
朝までは東からの追い風で、80~90km/hで走れて絶好調だったが、風向きが変わり向かい風になると60km/h以下しか出なくなる。

そんな中をイランナンバーのTIR(国際トラック便。西アジアや欧州などの国を越えて走る)のトラックに追い越される。あと、まれにドイツナンバーのキャンピングカーも見かけた。
アジアハイウェーという至極重要な国際的な一本の道なのである。

ダルバンディンから280km。ついに国境の町タフタンに着いた!
今夜はここで泊まり、明日イランに入国する。

国境の村は関所の村

パキスタン側の国境の村、タフタンの町の中の路地は細く、舗装されていない。商店では食料品は100%イランからのものだ。雑貨類も中国製ばかりだった。ここまではパキスタンとは言えど砂漠を隔てたパキスタンよりイランのほうがずっと近いのである。

インドで買った靴が粗悪品で、10日で底が抜けてしまった。だが、路上で靴磨き屋が簡単に縫って直してくれた。

その後は食事。さくらんぼ缶詰と串焼き。電気が供給できる時間が限られているので、ぬるくならぬうちに冷蔵庫の中で売っていた缶詰を食べる。

そして串焼き。道ばたで炭火を使って、鉄串に羊の皮の部分を焼く。日本の焼き鳥と同じで、実にうまい。1本8円。

この町には離れたところに政府直営のホテルがあるが、高いので町中の掘っ立て小屋のような宿に泊まる。壁はなんと土でできており、電気水道ナシ!中庭のドラム缶の水で身体を洗い、用をたしたあとその水で流したりしりを洗ったりした。

灯りのほうは石油ランプを貸してくれたが、その熱でだんだん部屋が暑くなる。だから中庭にベッドを出して星空を見ながら寝る客もいた。

20時になると暗くなるので、砂まみれの汚いベッドの中で寝る。電気もないので、もう寝るしかない。だから案外早く眠れた。
電気もないので自然の法則に従い、あたりも静まり返ったようだ。昔の中世や江戸時代などの旅人になった気分だった。

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