思えば、ペルーの旅は命がけだった。いたるところに金を盗まれたり、シャワールームですら死の危険があった。
ペルー編 2001年1月10日~1月20日
通貨1ソル=33円 ・ガソリン 70円 ・宿 330円~
・I’net 66円/h
定食:牛と玉葱煮、ライス、スープ、水に近いジュース 66円 ペルーの定食もうまい
屋台・じゃがと牛肉串 33円
・ペルー名物・インカコーラ 1.5L 116円(黄色いので、別名小用コーラ。かなり高いが、類似品は安い。)
嘆きのスクラム
ラパスからペルーに入国し、青空の下のチチカカ湖を見ながら走る。海抜3800m。面積は埼玉県とほぼ同じなこの湖は、緯度も高いので北海のような青く寒々しい水平線が広がる。
プーノの町に泊まる。安宿ではホットシャワーが無いので、仕方ないから自前のガソリンコンロで湯を沸かす。沸くまで時間がかかるが、寒さをガマンしながらも体をなんとか洗うことができた。
翌朝8時ごろ朝食のため市場を歩く。その時だった。
中年の男3人が私にぶつかっていった。すると自分の財布が落ちてしまった!
すぐに自分で拾うことができたが
「これはいかん!」と、すぐその場を去る。自分の頭の中は警告ランプが渦巻いている。
ペルーより先は泥棒がウジャウジャいるとさんざん聞いていたので、ゴルゴ13並みの用心を払っていた。
そしてしばらくして、別の店に入っている時だった。店の中なのでさっきの男らはこないだろうと一呼吸した瞬間、なんとまた3人の男がイノシシのようにとつげきしてきて、ラグビーのようなスクラムをくらわれ、ついに財布を盗まれてしまった。
時計やパスポートは用心のためホテルに置いていたが、やはりやられた時のくやしさは大きい。
ペルー入国ののっけから、ついに盗難にあってしまった。
朝だから大丈夫だろうと40ドルいれたままだったので、尚更くやしかった。見事に隙を突かれた。
今思うと、あの時捕まえて「ラドゥローン!(泥棒!)」とか「ポリシア」とか叫べばよかったかも知れんが、突然思いもよらぬ事態に会うと、頭が混乱して何もできなくなるのが人間なのだ。
いくら普段用心しても、やっぱり盗難にあうのがペルーである。
それからは、町を歩くときはパスポートのコピーと小銭だけを持ち歩き、他は全て宿に置くことにした。(南米の宿の中では不思議と盗難にはあわなかった)カメラを持ち歩く時は黒いスーパーのビニール袋に入れて持ち歩いた。
こんなこと、日本では考えられないだろう。
カーナビやセルラーが車の中でほったらかしにして駐車している日本ってなんて安全な国なんだろう。
それに比べて中南米の危険な国々では、商店で物を買うときも鉄格子越しに物を買っていたりしていた。普通の市民でも暴動がおきればいつも買い物している近くのスーパーから平気で物をかっぱらったりするから実に恐ろしい話だ。
盗難や強盗におびえながら旅をしている自分にとって、その日本の安全と秩序がとてもありがたく、うらやましく感じるようになった。
通りを歩いたり角を曲がったりする時も、不審者がいないか確かめてから歩き出す。強盗や狂人が背後から迫ってくるかもしれないのでしばし後ろを振り向き、警戒する。
そうやって北中南米ではゴルゴ13のように毎日旅をするのだが、ペルーのスリ事件以降、これから危険な国が続くので自分のゴルゴ度をさらに強化した。常に緊張感で高ぶる。そして歩くときは神経ピリピリ、いつも殺気立たせて歩くようになった。
それくらい目つきも険しく、敵からの襲撃に対して用心深くなければ、旅できない世界なのだ。
クスクスクスコ
ペル-の古都、クスコに着いた最初の宿で、電気シャワーを使おうと蛇口をひねると、ビリリビリリと痺れまくる。蛇口へと漏電しているのである。
電気で瞬間的に沸かす電気シャワーは南米ではポピュラーだが、220v、6000wの高電流なので感電死するケースもたびたびある。
だからシャワーに入る時ですらゴルゴモードにならざるを得ないからたまったものではない。
しかたないから、手にゴムサンダルをはさんで蛇口を回した。
遠い異国のシャワールームで
「世界一周ライダー・フルチンで死亡」
じゃ目も当てられないね。
クスコは、インカの古い町並みに、日本のように白壁や瓦を使っており、川越の旧市街を思わせる。
そしてアルマス広場に行くと、今度はスペイン統治の名残でヨーロッパ風の広場になっており、きれいである。
大聖堂(カテドラル)は、バチカンやパリのノートルダム寺院に比べれば小さいが、それらにひけを取らないほど中は豪華さを感じたのだった。
この二つの異なる街の景観が良く、観光客もとても多い。
そのあと、クスコ滞在中はいつも通っていた日本レストラン・金太郎。経営している女性がNHK喉自慢inペルーに出演したのを、日本にいたとき見たことがあったのだ。
あいにくながらその女性はいなかったが、ペルー人女性が料理を作っている。
ランチメニューは、御飯、インスタント味噌汁、漬物、ペへレイ(白身魚)の天ぷら、
日本茶。店内やお膳立ても高級感あふれて、それでたったの330円!これは感涙物だった。
うどんにしても、飛騨の山奥で食べるような味わいで、店内が和風とはいえインカの建物のスタイルも日本に近いものがあるので再現し易いのかもしれない。
夜になると白人観光客も多くなり、ペルーに来てまでなぜか和食を食べる彼ら。慣れない手つきで箸を使っており、まるで六本木のような店内になる。
クスコではジェベルのMFバッテリーが一年で寿命になった。ボリビアから原因不明の電気系トラブルが続いたのでここでバッテリーを交換したのだが、普通のバッテリーしか売っていないのでバッテリーボックスに強引にねじ込んだ。
さあ次はナスカだ。と出発したが、100km走るとまたエンジンが止まり、全く始動不能となる。
しかもエンストしたのが山の中。
「ああ、どうしよう・・・」
雨の中、押しがけしてもダメだ。
山の上の村まで20kmも離れていて、なすすべがなかった。岩陰で呆然とする。
食べ物だってない。絶望と苛立ちを抑えて、これ以上進めないと判断し、クスコに戻ることにした。
山の中を自暴自虐気味になりながらヒッチしながら押して歩いた。
やがて夜になり、4kmも押し歩いていたときにクスコへ向かうトラックが停まってくれた。助け舟だ!
「よし、バイクをつめ」
もううれしさと安心で飛び上がるほどだった。
「ただし40ソル(1300円)だ」
すぐに言い値の40ソルを払い、ジェベルとともに幌付の荷台に乗った。真っ暗で、犯人の護送のような気分だったが、「ああこれで宿に泊まれる・・」
頭の中はそれだけだった。
トラックは4時間かけて山道を登り、クスコへと戻った。夜10時半を過ぎていた。
ホテルの前にバイクを下ろしてすぐにチェックイン。昼食以来何も食べていないので開いている近くの商店で冷蔵庫に入った手作りの2ソルのプリンを食べて、寝た。
翌朝、電装部品を外して、注文しにパーツ店へ。
しかしそれらのパーツはクスコにもリマにもないと言われた。そうなると膨大な手間と時間と金をかけて電装部品を実家から送ってもらうしかないのだ。
もう完全に打ちのめされた気分で部品をはめなおし、立ち往生した山の中以来うんともすんとも言わなかったセルボタンを押すと、なんとエンジンがかかったではないか!
どの電装部品が故障してるのかは全くわからないが、バッテリーを充電すれば何とか走れそうだ。
「よし!こうなったら、行けるところまで行くしかない!」
クスコにいてもどうにもならない。とにかく寒くて雨ばかりのクスコから脱出したい。
今はまた動いたとはいえ、バッテリーが放電すればまたどこで動かなくなるだろう。
しかもクスコからナスカへのアンデス山岳地帯は雨季のため天嶮の難所と化しており、その上ゲリラの出没地帯。
ちょっと前まではテロ活動が激化しており、バスさえも通らないほど危険なエリアだった。
そんなところで立ち往生しようものなら最悪の場合、死・・・が待っているかもしれない。
いちかばちかの覚悟を決めて再びナスカへと向かった・・・・・
-第16章-
おわり
第17章 ペルー サバイバル編
(2001年1月22日~2月17日)
※秘魯之利馬(ペルーのリマ)中華街有。
・チャンポン 217円
・CHIFA(小皿に焼飯とあんかけそばをのせたペルー風リヤカー屋台中華。そんなにおい
しくはなかったが小腹がすいた時に最適。) 33円
・Cha Siu Pau 99円 (肉まん・焼豚包。高いだけあって角切りのチャーシューが入
っており日本のコンビニのよりうまい)
決死のアンデス脱出
その時、クスコの安ホテルのレセプションに立っていた。
カウンター越しにいるのは南米では珍しく英語の話せる青年だった。
お互いへたくそな英語で話したのだが、なぜか意気投合したのか気が付けば1時間も話してしまった。
自分にとって南米は言葉が通じない電波圏外的エリアだった。話したくても話せない。
理解したくても解らない。しかしここで色々話すことができたため、イランの韓国女性旅行者・パックの時と同じく、お互いのフラストレーションが開放できたのかもしれない。
あらしの前のくつろぎ背伸び運動と言うべきか・・
そして、出発の日。ただの出発ではない。
「よし!こうなったら、行けるところまで行くしかない!」
いちかばちかの覚悟を決めてクスコから再びナスカへと向かった・・
クスコから100km走ると、谷になっている。ここで前回エンストして辛酸をなめる結果となった地である。
まだまだエンストする気配はない。そして一山越えてアバンカイの町についた。
そこから先はダートの凸凹道が始まる。運悪く雨季の最中なので道には何本も川が流れていて行く手をさえぎっている。川は浅いが、流れは急なのでひとつ油断するとバイクごと谷底へ流される。ずぶ濡れになりながら命がけでクリアした。
アンデスは苦難の連続。
今度は目の前に土砂崩れの泥で、道路がふさがれていた!
雨の中、ぐちゃくちゃの泥をどうやって越えたかというと、右のつづら折の標識のあたりから登って突破することができた。
泥道が続き思うように進めず、夜が来て真っ暗になった。しかもこんなところでまたバッテリーが完放電して動かなくなったのだ!
このあたりはゲリラの出没地帯でもあり、一時はバスすら通らなかった危険地帯だった。
そんなところで真っ暗闇の中動かなくなると言うことは、野獣の棲むジャングルに放り出されたのも同然。このときばかりは、真っ暗闇の恐怖の中、本当に死を覚悟した。
そのせいか、前回のエンストとは違って「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と、冷静に判断することができた。
「もし、最悪の結果になっても、夢を果たしている最中に死ぬのならそれも人生だ!もともと生きて日本に帰れるかわからないリスクを背負ってここまで辿り着いたんだから」
と言うロシアンルーレットのような気持ちも、一瞬よぎる。
しかし、何も見えぬ暗闇の中、次第に恐怖心のほうがこみ上げてくると、そんな考えは押しつぶされ、一刻も早くこの場を脱出しなくては!という気持ちに変わる。
このままでは遭難だ!
必死で助けを求める。
さあ、いったいどうなる!