第17章 エクアドル編
●インディヘナの怒り
●物価安王国の通信革命
●モトショップ・モトゾーン
●マエストロの豪邸とおてんば娘
●こんなところに日本人!?逆出かせぎ
●原住民村と黒人村
(2001年2月~)
インディヘナの怒り
エクアドルに入国した途端、乾燥したペルーとは違って緑が多くなる。それは道路沿いに広がる米国大手企業の契約バナナ畑が果てしなく広がるからだ。
小学校の社会科教科書に出てきたような風景。
エクアドル最大の都市・グアヤキル。リマでも見られなかった高層ビル群もあれば、海辺には古い植民地建築もありで、まるでインドのボンベイのようだった。
町外れの港に行くと、バナナ運搬のコンテナがまたずらりと並ぶ。さっきのバナナ畑といい、グアヤキル港といい、日本で我々が食べるバナナもこうやって日本に送られて、スーパーや食卓に並ぶのである。
グアヤキルを去り、夜は山のふもとのラブホテルに一人で泊まる。
山のふもとにラブホ、というロケーションが、日本もエクアドルも同じなんだな。
ピンク色の壁の室内にはTVとクーラー、シャワーとビデだけの質素な部屋だが、実にきれいで、それでたったの一泊4ドルだった!
翌朝ラブホを出発し、パンアメリカンハイウェイでキトへ。といっても山道である。後で知ったことだが、この山岳地帯は外務省危険情報で危険度3(家族等退避勧告)となっていた。しかしこのあたりを通らずには進めない。進むしかない。
そして、道路にはなんと巨大な丸太が何本も横倒しになっていて先に進めないではないか!これは人為的なのは明らかである。
原住民・インディヘナによるバリケードストライキだった。彼らは歩きや自転車だから通れるが、よそ者の車やバイクはとおすわけにはいかん、という文明社会に対する挑戦とも受け取れた。
ばかでかい丸太の前ではなすすべもなく立ち往生したのだが、結局「張本人」であるインディヘナの村人に担ぎ上げてもらった。
はっきりいって私はこの迷惑きまわりない通行妨害に心の中で怒っていたが、彼らだって怒っているからこそあえてこんなことをしているのだ。何に対して怒っているかは知らないけど。すごく複雑な気分だった。
やっとの思いで丸太バリストを攻略したと思ったら、今度は途中の村で道路上にタイヤなどを盛大に燃やしてデモをしていた。
彼らを刺激させないように冷静にすり抜ける。相手もデモ中だから下手に虫の居所が悪いと何されるかわからない。通過するのも冷や汗モノで、またも命がけであった。
そんな思いでやっと首都のキトへ到着。もし車やバスとかだったらキトにはたどり着けなかったろう。
グアヤキルとは対照的な標高2800mの高山都市、キトは南米の近代都市とあって最新のショッピングモールにはブエノスアイレス以来のタワーレコードまであったほど。街中にはネットカフェもあちこちにあってしかも安い。
たしかに山に暮らすインディヘナが怒るのも無理がないかもしれない。
エクアドルも近代化の波が急激に押し寄せている。この国では金さえあればショッピングセンターだのインターネットだのと先進国と同じ生活ができるし、私のように貧乏ツーリストとは名ばかりの小金のある旅行者は、物価が非常に安いので日本以上に豊かな生活ができる。
しかし大半の国民は貧しく、特に先住民は未だに原始的な生活をしており、貧富の差が激しく、格差は広がるばかりである。ハイテク生活している都会人と、近代化から取り残された山岳民族。ひずみが生じるのも当然であろう。
だけど道路封鎖などで足を引っ張り合っては、結果的には国自体がいつまでたっても貧しいままにしかならないと思うんだけど、どうなんだろう、といろいろ考えさせられもした。
日本のように一つにまとまれない国なので、大変な国だと思わされた。
物価安王国の通信革命
キトではジェベル125の修理をするため、長逗留したのだが、結局ズルズルと25泊もいてしまった。その最大の理由として、ホテル代の安さ。
ずっと泊まりっぱなしだった「Margarita2」というレジデンシアル(安いホテル)は、TV、シャワーつきとビジネスホテル並みで、しかも毎日ベッドメーキング付きで一泊たったの3ドル!!
あまりに信じられない安さゆえ、本当は2ヶ月や3ヶ月、いや半年ぐらい時間の許す限りドロドロになるまで沈没したかった。それだけコストパフォーマンスが世界一なのだ。
ガソリンも安かった。1ガロンで1ドルだった。アルゼンチンなんか1リットルで1ドルだったから、同じ南米でも4倍近い格差があるのだ。
そして町の随所にあるインターネットカフェは1時間1ドル。しかも備え付けのカメラで撮った映像や音声をEメールで送ることができて、自由にそういうことができるあたり、よけいな法的規制が無い分、なんか日本以上に進んでいる気がした。
10秒のビデオ映像(容量630KB)を、ネットを始めたばかりの日本の両親へと送った。
ダイヤルアップなので送信するのに2分か4分はかかったが、それでも40セントで送れたのでびっくり。
ブロ-ドバンドが普及し、現在こそビデオ動画ファイルなんて当たり前だが、あの時、日本の家に届いたその動画ファイルがあまりに重くて開けられなかったらしい。630kbといえば、当時のメールアカウント容量の大半を占めるわけだし、そしてPCのスペックにしても画像を再生するだけでフリーズしてしまうのだ。
そしてインターネット電話。奥の部屋で気軽に掛けられる。
ネットの電波を使うのだがダイヤルアップなので日本へかけると雑音もひどく、日本の携帯電話にかけようものなら全然聞こえなかった。
だが驚いたのは通話料の安さ!日本や欧米にかけると一分たったの22セント!
しかも、なぜか隣国のペルーやコロンビアにかけるよりも安い(半分か3分の一の値段)!
考えてみれば日本国内で10m離れた隣の家より、15000km離れた日本にかけるほうが安いと言うのは、なんともクレージーだ!
エクアドルは思った以上にIT化が進んでおり、まさに通信革命だ。
コレクトコールが1分1000円もかかった大手電話会社なんかそのうち経営が成り立たなくなると思う。
こうしてキトではネットにふけたわけだが、キトに着いたその日にアスンシオンの社長からのメールが届いたので、読んでみると電装トラブルの原因はレクチュファイヤー(整電装置)か、ステータコイル(発電コイル)が原因とわかり、早速注文することにした。
モトショップ モトゾーン
しかし、キトに滞在した当初はペルーまでとは勝手が違い、いらつく毎日だった。バイク屋で注文して、マニャーナ(明日)と言われて、期待して律儀に明日その店に戻っても、用意も注文も全く何もされていなかった。
たらいまわしにされた店はどこも本当にいい加減で、スペイン語がわからないので修理も難渋を極めた。
そして一週間後、一からやり直しで今度は7km南に離れた南区のバイク店「MotoZone」に行った。店には中年の店主と若奥様の二人がいた。しかも英語が通じるではないか!これで一気に目の前が明るくなった気分。
ところで、この二人は最初夫婦だと思っていたが、彼らはなんと父娘だったのだ。
しかも彼女はまだ15歳!そんな彼女をてっきり「奥さん」だと思っていた自分は本当に超失礼。
彼女の名前はガブリエラ・サロメ・サントス。通称ガビィ(Gaby)。彼女はバイリンガルスクールで午前は英語、午後は仏語を学んでいるだけあって、英語の発音がネイティブ並み。
だけどラテン人らしからぬシャイな女の子だった。
Gabyはその日は店の手伝いで来ていたのだが、早速パーツを注文してくれた。
レクチュファイヤーの純正品はエクアドルでは入手できないので、USAから取り寄せるのだが、彼女は自前のノートパソコンを使って、USAのパーツ会社に注文のメールを送っている姿は、もはや15歳とは思えない風格ある仕事振りだ。
パーツ注文とはいえ、世界をまたに架けた国際的な仕事をしているのには変わりがない
ので、そんな彼女がとても凛々しくカッコよく見えた。
Gabyは私と同じくホットメールのアカウントを持っており、それでプライベートからそのビジネスまでこなしていたのだった。
一方、ガレージでは何人か働いていて、Gabyと同じ位の少年がいた。しかし少年は彼女とは対照的に油で汚れたぼろぼろの身なりをしており、店主に
「マエストロ、パーツを持って来ました」
といっている姿を見ると、やはり貧富と階級の差というエクアドル、そしてラテンアメリカの現実を見せ付けられてしまう。
少年は店主に対してマエストロ(Maestro)と呼んでいたが、直訳すればマスター、店長の意味。マスターカードが国によってはマエストロなんて呼ばれているのと、同じ原理かもしれない。
日本や欧米でも「巨匠」と言う敬意を表す意味合いでマエストロという言葉が使われ始めている。
この「MotoZone」のマエストロは、店主でもあり、マスターでもあり、人間的に巨匠でもあった。物腰柔らかいマエストロと一緒に食事に行ったりした。
彼は1993年に一週間来日したことがあった。
「見ての通り、この国にはいいバイクが無いからわざわざ日本に行って中古バイクを輸入してきたのだ」
マエストロは娘のガビィよりは英語はうまくない。私と同じぐらいの英語力だが、スペイン語のまるで通じない日本で単身、不自由な英語だけを使って単車の取引をしに行ったのだから、本当にマエストロたる勇気ある人だった。
A「いやー、単身日本へよくいきましたね。」
M「きみだって言葉の壁を越えてモト(バイク)でここまで来たんだから、それと同じことだよ」
A「日本の印象はどうでしたか?」
M「新幹線はすごく速かったさ。だけど金が無いからスープスパゲティを食べていたよ」
・・と、マエストロは笑っていたが、彼の言うスープスパゲティとは、立ち食いうどんのことだと思われる。
M「ナゴヤの方でモーターサイクルの取引をしに行ったんだけど、日本人ってみんな英語話せるんだよね。だけどスモーカーが多いからどこへ行ってもヤニ臭かったのがいやだったなあ」
A「ぼくもあのヤニ臭いのはいやです。だけど英語の話せる日本人はだいたい10%ぐらいらしく、残りは話せないんですよ。日本人は全員学校で6年~10年勉強しているのに関わらず。」
と、そんな話で盛り上がった。ここで気が付いたのが、日本人は英語が話せない、と思っている日本人が圧倒的に多いが、外国人から見れば日本人は英語が話せるのだ。
ようするに、英語のミスや恥を恐れてしまう、完璧な文法で話さなくては、と思い込む国民性ゆえに自分は話せないと決め付けてしまう。
失敗を恐れず、ヘタクソでもいいから英語を話す姿勢を見せれば、日本人だって英語はちゃんと話せるのだ。
そして、マエストロの家族とテニスをしようという話になった。
「よし、それじゃあ日曜日にテニスをしよう!きみも来るかね?」
「もちろんですよ!ぜひ行きましょう!」
マエストロの豪邸とおてんば娘
2月18日。この日はマエストロたちとおテニスをする日。
朝7時半、ホテルのボーイが呼んできたので外へ出るとマエストロと長女ガビィをはじめとする「マエストロのお嬢様3姉妹」が待っていた。そしてマエストロの弟とその子供たちで計10人で車で運動公園へ。
運動公園に着くと、まずはテニスの壁打ちをした。そしてお嬢さんたちと対戦。キトではくっちゃねの規則正しい沈没生活だったので、思い切り体を動かすのは実にいい!腕が痛くなったら今度はキックボードに乗る。だけど乗りずらいしブレーキも無いので自転車よりも疲れるし不安全。
そういえば私が世界一周する前の1999年はキックボードが大ブームだった。
当時渋谷とかではキックボードがあふれていて、フランスやドイツでもみかけたから世界中でブームだったらしい。
いくら「歩くよりラクだしイケてる」なんて言っても、階段ではいちいち持ち歩かなくてはならないし、ブレーキすらないのに人をすり抜けるように歩道を走るなんて危険だ
から、キックボードのブームなんて続くまい、と思っていたら案の定、蜃気楼のようにブームは去っていった。
マエストロ弟の子供には小さい女の子がいた。良い家庭に育っているのか、とても人なつっこくて一緒にじゃれあう。もうめちゃくちゃかわいいので一瞬自分も結婚してこういう子供が欲しいな、とすら思ったほど。
だけど私の冒険人生もまだまだこれから!と当時の自分はそう思っていた。
テニス&キックボードの後は木登りをした。マエストロの3少女はどんどん登り始めて、気が付くとなんと30mもある大木の頂上まで登りつめて、ついに彼女たちの姿がみえなくなった。
私も自分のトシを忘れて登ってみたが、5mがせいぜいで、体重で枝が折れたらどーしよー、こわいよう~、とすぐに降りた。女の子に負けるなんて日本男児としてへタレの極みだね。
だけど3姉妹が気になり、マエストロ弟の子供たちと木を見守る。
思わずさけぶ!
「オーイ、ガビィー!降りられるかー!?」
やがて3人はアザだらけになりながら降りてきた。
「こわかっただろう。」「うん」
マエストロ3姉妹はビル7~8階分の高さまで登ったわけだから、とてもシャイなお嬢様と思いきや、実態は恐いものしらずの超スーパーおてんば娘だったのだ。
公園を去り、弟一家と別れてメルカド(市場)でインド以来のさとうきび汁をゲット。
そして家に向かって走るのだが、マエストロもまた、見かけによらずちょいワルヲヤヂなのでものすごくとばす。ハイウェイの下りでは速度計は140km/hを指していてまるでドライブゲーム以上の本物のスリルを味わった。
家に着くと、目の前にはでっかい門が見えた。なんてでかい家なんだ!しかもこのあたりは都心よりも600m標高が低い2200mの地なので、空気も濃くて春のように暖かい。ラパスでもそうだが、標高の低いところほど空気も濃く温暖になるので高級住宅地になるのだ。
車で少し行けばアメリカや日本と変わらないショッピングセンターやスーパーがあって、これぞエクアドルのビバリーヒルズとも言うべき、別世界であった。
家に入ると、英語が一番うまいスペイン系の美人妻とおばあさんがいた。この家族はマエストロ以外全員女である。だから家の中もきれいで、彫刻や絵画などが飾られて、まるで小さな美術館のようだ。
まずは料理。奥さんとばあさん、そしてマエストロも料理作りを手伝っており、日本の父親像とは一線を画したすばらしいものだ。ガビィたちも手抜きなく食器やナプキンを並べていた。
三姉妹。一番左が長女のGaby
16時、遅い昼食なのか早い夕食なのかは微妙だが、ディナーと呼ぶにふさわしい食事。
一つの皿にゆでじゃが、ライス、レタス、白身魚をチーズクリームとともにオーブンで焼いたもの。
みんなそろって食べ始めると、突然
「ジャジャジャジャーーーン!!!」
と、ベートーベンがBGMとして流れてきた。いきなり「じゃじゃーーーん!!」と流れてきたのでびっくりしておかしかったが、クラシックを聞きながら素敵な邸宅でおいしいディナーなんて、まるでヨーロッパの貴族になった気分で、忘れられない。この家族は美意識が高い。
食後、この豪邸について尋ねると、家は5LDK、土地は530平方メートルもある。4年前購入された時は$45000!今では$80000の価値があるという。日本だったら1億円はするだろう。
「奥さん、日本の家は狭いっぺよ~。敷地が70平方米で車一台置いたら庭のスペースがなくなりま。それでも東京のはずれの郊外の田舎でも$200000はしまっせ~~!」
と、力説したら奥さん、天を仰いでた。
その後は家族で庭の芝刈り。ガレージには車が2台。とは言えど日本の中古車だけど、まるでアメリカのホームドラマさながらの豊かな休日だった。
帰りは、近道の細い急坂をあえぎ登って宿に戻った。マエストロ邸から14km。空気もひんやりとしている。とてもつかれたが、「金持ち」の生活が見れて非常に楽しかった。
こんなところに日本人!?逆出かせぎ
物価も激安で相変わらず続くエクアドルの優雅な沈没生活。
旅先での衣類の洗濯の話になるが、ラパスにいたときはいつもクリーニングにだしていたという贅沢ぶりだったが、これには訳がある。
気温が低く雨ばかり降っていたので洗うも地獄、干すも地獄だった。
キトも気温が低いが物価も低いのでクリーニング屋を見つけて頼んだのだが、ラパスの2倍の2ドル以上とられた上、よく見たら全然洗濯されていなかったのだ。
頭にきたのでやけくそになって普段のように手洗いした。だけど案外乾いたので自分で洗った方が納得もいくし沈没生活ではいい運動代わりにもなった。
もちろん物価が極端に安いと言うことは、その国の経済が極めて不安定ということなので、モラルや治安の低下もあるし、非常識なことだっててんこ盛りだ。甘い蜜も辛酸も抱き合わせで味わなくてはならない。
エクアドルで街中を歩いていたら、カーニバルの期間なのか見知らぬ人間からいきなり水をぶっかけられる。
タイにもソンクラーン(潅仏会)という水かけ祭りがある。期間中はお祭り騒ぎになり、仏教行事の一つとはいえカオサンにいる白人連中はここぞとばかりに水鉄砲で暴れまくるのだ。
が、エクアドルの場合はソンクラーンのようになまやさしくない。
ここではドリフのコントみたいにいきなりバケツでドバーンと「ぶっかけ」られるのである。しかも一ヶ月の滞在中ずっとなのだ。
これが真夏のうだるような暑さならわかるが、ここは標高3000mの高所なのでびしょぬれになったら風邪を引く!だけどみんなお構い無しに水をぶっ掛ける。もう最悪としか言いようがなく、街を歩くたびに言いようのない恐怖と怒りとストレスがたまってくる。
そんなある日、街角で出会った貫禄ある老人は私を見るなり片言の英語で「わしはコリアンウォー(朝鮮戦争)のため1950年にナガサキに滞在したのじゃ」と言った。
原爆で焦土と化した長崎や、戦地の朝鮮をどのような思いで見たのだろうか。
日本人の若者である自分を見て、きっと老人は若い頃の記憶が電光石火の如く甦ったのだろう。同世代の若者が戦に駆り立てられ、そして敵として戦うわけだ。
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そのあと、ちょっと高めの中華レストランに入ったら、ウェイターに日本語で話しかけられたのだ。てっきり日本語の話せる中国人かと思っていたら、なんと彼は本当の日本人だったのだ。
彼は30代で、アジアや南米を放浪しているうちにキトの気候風土が気に入って住んでいるという。ちゃんと就労ビザも持っているのだが、当然現地人と同じ給料しかもらえない。
だからといって、いくらいい加減なエクアドルとはいえど、もちろんいい加減に働くわけにはいかない。失業者の多いこの国ではいちいちよその外人なんて雇う必要もないから、「よそ者」の彼はリストラされないようまじめに働かなくてはならないそうだ。
なので仕事も想像以上にハードで、同じ労力をかけるなら日本やアメリカで働いた方が遥かに割りにあう。
ウェイターだからスペイン語はどれだけ話せるのですかと聞いたら、
「半年西語学校に通ってからウェイターを始めたんですよ。ウェイターとはいえ、決まった言い回しで接客するからそれは話せますが、複雑な話になるとちんぷんかんぷんです。TVを見ても、動きとかで内容はわかりますが、言葉はよくわからないですね。」
色々話していると、生真面目でこだわりを持つ頑固な彼であることがわかった。
在住の日本人の友人のところでインターネットを利用しているので日本の最新情報をしっかりおさえていた。
Motozoneに戻ると、レクチュファイヤーが原因でないことが判明。ウワー、目の前が一気に暗くなる。一体何が原因か?もうジェベルを処分してツーリングをやめたくなったが、最後の望みをかけて発電ステータコイルを見ると茶色く変色していた。
「これが原因だよ」とマエストロ。やっとわかったぞ!
コイルがダメになっているので充分な発電力にならず、プラグの点火すらできなくなるのだろう。結局中古のコイルを3日で取り寄せて、44ドルですんだ。
実はペルーやエクアドルではジェベル200が売っており、(輸出名DR200)警察の車両にも使われているのだ。だからどおりで部品が手に入ったわけだ。
ところでこの国・エクアドルの通貨はアメリカドルである。
以前はスクレと言う通貨があったのだが、通貨がインフレで破綻したので私がいた頃にはエクアドルの通貨は米ドルになっていた。
現地通貨と米ドルが両方流通している発展途上国は世界中で存在する。普段の日常品は現地通貨で、高額商品は米ドルで支払う、ということだが、しかし、エクアドルの場合はその日を境に米ドルのみしか使ってはいけないのだ。
USドルだから書かれている紙幣の言語は英語だし、肖像はアメリカの歴代大統領の写真。スペイン語で生活しているのにそれを使わなくてはならない。
しかも、戦後の沖縄のようにアメリカに占領されたわけでもない。なのに明日からアメリカの金を使えだなんて、これは日本のような特有な文化を持つ国から来た者にとって、はっきり言って理解しがたいことだ。エクアドルのプライドも、経済と言う力の前ではなすすべもなくひれ伏すしかないのだろうか。
ある意味、巨大帝国の緩慢的な植民計画と言う気もする。
キトを出る最後の日は、出発がつらかった。毎日TV見て、ネットやって、うまいものを毎日食べて遊びまくった生活なので離れるのがつらかったのだ。
だが、このままズルズルと居ると旅の日程も狂い、ダメ人間になりそうなので重い腰を上げてキトをさった。
25日におよぶ沈没生活にふけた一泊3ドルの宿の女店員。フレンドリーすぎる。日本とは常識が正反対。
原住民村と黒人村
キトから赤道を越えて、ちょうど半年振りに北半球に戻り、キトから110km行くとインディヘナのオタバロ族の村がある。標高3000mの山村で、男は黒い髪を三つ編みにして帽子とマントを羽織り、伝統を守っている。
インカの子孫と言われる彼らはやはり東洋人に似た顔立ちで、標高の高いところではペルーでもボリビアでもインディヘナが彼らのテリトリーだ。
キトから135kmのイバラの町はオタバロの村と違い、ショッピングセンターもある「小キト」のような近代的な町。やはりキト同様、メスチーソ(白人とインディヘナの混血)が多く、アメリカナイズされたありふれた格好をしている。オタバロ村から少ししか離れていたないのにまるで別の国みたいだ。
だが、もっと驚いたのはこれからだった。
イバラからさらに山をくだり、キトから180km、空気も生ぬるい標高1600mの谷底の村に着くと、なんと住民はみんな黒人だったのだ!
USAの黒人と違ってとても素朴で、前を走るボロトラックの荷台に20人ぐらい陽気な黒人が乗っていて、こちらに手を振ってくれるのを見ると、まるでアフリカだ!
アフリカから流れに流れてここまでやってきた彼ら。そんな思いもよらぬシーンにまだ見ぬアフリカにロマンを馳せた。
こうしてみると、標高の高い寒冷地にインディヘナが住み、より標高の低い熱帯的な所に黒人が住み、温かい中間部に町や都市が発展しているようだった。
そんなエクアドルの知られざる人種の多様ぶりに驚かされもした。
国境の町の宿に泊まる。明日はコロンビア入国だ。
まだエクアドルなのだが、TVをつけるとコロンビア南部のカリの放送が流れていた。