日本語に飢える。活字に飢える。これは半端ない究極のデジタルデトックス。

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「日本語に飢える」。そんな経験ありますか?

しかし、PCやスマホ・タブレットなどを片時も手放せない人にとって、

その経験を味わうのは、もう不可能といってもいいでしょう。

ネットもPCもスマホもないジャングルの奥地に何ヶ月も住むか、

山奥秘境の寺で何ヶ月も修業しない限り、

「活字に飢える」

という感覚を知らぬまま生涯を過ごすわけです。

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強烈に日本語に飢えた経験・旅人年代のギャップ

先日、40代以上の旅人・元旅人で盛り上がったのは、この話です

「強烈に日本語に飢えた経験」

この経験の有無によって、おそらく昔の世代と、若い世代に分かれると思います

たとえば、昭和時代や20世紀までは、スマホもパソコンもネットもないアナログ時代でした。当然海外の長旅だと、手持ちの本だって何冊もないわけです。

そんな「ノー日本語」な海外の環境で(とくにユーラシア横断とかアフリカ縦断とかインドなど)を何ヶ月もいると、めちゃくちゃ活字に飢えてくるんですよ。

そうなると、海外の日本文化センターや、日本人宿などにある本や雑誌を、まさに飢えたオーカミのように、目を吊り上げるようにむさぼるように読むんです。

この「ノー日本語」の世界は、実際そんな時代に何ヶ月も海外を旅した経験のある人にしかわからないと思う。

「活字に飢える」と、どうなるのか?

本などがあふれている日本ではないので、普段読まないような本を読むわけです。

たとえば50代男性は

「日本にいるときはまず読まない少女マンガをはじめて読んだ」

というし、
前回も登場した坪井伸吾さん(53)は

 

22年前、ブラジルの日系農場で働いていたとき、とにかく日本語と活字に飢えていて、日本語が書いていればなんでもうれしくて、目につくものはすべて読んでいた。
少女漫画読んだのはそのときが初めてで、読んでみて面白いじゃないか、と、思った。それまではバカにしてて触りもしなかったことを大いに反省。

少女漫画で「ガラスの仮面」はかなり異色。はまったのは本質が少年漫画と同じ熱血バトルものも構造をしているからとわかる。

 

そして、インドで悟りをひらいた!?

今年で60歳になる奥平正和氏は、1994年に世界一周をし、ヨーロッパからユーラシア横断をえて11月25日にインド・ニューデリーにたどり着いたわけですが、

日本語のない環境に何ヶ月もいたので、当然ものすごい

「日本語飢餓状態」

になってるわけです。

著書の中で、ニューデリーの露店で見つけたのは・・・

古本屋が並んでいる露店に、日本の雑誌を一冊見つけた。

長旅をいていると、無性に活字が恋しくなってくる。もう日本語の文字なら何でもいいから読みたかった。

その日僕が買ったのは

 

ESSE(エッセ)、

お弁当と秋の装い特集だった。

 

こんな女性誌、

日本じゃ絶対読まねーだろうなあ。

そして、たびいちの場合はというと、

2000年に世界一周した時は当然ネットも何もないアナログでしたので、

インド・ニューデリーでは

ニューデリーに戻る。ここには日本センターがあったが、ネットカフェなんてなかったので日本の活字とかに飢えていた。

中に入るとその時はみんな職員も客も全員インド人で、日本人は私一人だった。しかし図書室のように日本の本が並び、新聞や本をむさぼり読む。砂漠のオアシスのように。

フランス・パリでも

すっかり日本語を使わない生活をしてきたので、活字に飢えた私はパリ日本文化会館で日本の本をむさぼり読んだ。日本にいるときは決して読まないくだらない本でも、活字に飢えるとなんでも真剣に読んでしまうから人間の本能と言うのは面白いものだ。

中南米では、テレビをつけると日本のアニメをやっていたので、たとえば少女アニメだとキャンディキャンディとか、魔法騎士レイアースとか見てました。スペイン語だから何いってるかわからんけど、新鮮。

日本では見ないものでも毎日のように見てしまい、いまなお主題歌のメロディも覚えております

磯野家との運命の出会い

そして中米にいたときは

コスタリカの首都サンホセに日本センターがあった。現地の人に日本語を教えたり交流する為の小さな教室と、邦人向けの図書とビデオが置いてある図書室があった。インド・ニューデリーの日本センターを思い出す。

デリーとちがうのは、室内には上品な感じの女性と、ショートヘアでリュックや服にいろんなバッヂをつけている裏原宿系な高校生ぐらいの女の子と、局員の男性と、みんな日本人。

すみにおいてある段ボール箱を見ると、なぜか「磯野家の謎」が三冊も置いてあった。処分在庫ということなので一冊頂く。ずっとスペイン語ばかりの世界で活字に飢えていたので、いろんな本をむさぼり読んだが、昼には出発する事にした。

夜にはニカラグアの国境に着いたが、まだ19時なので国境前の食堂のテーブルで早速「磯野家の謎」を読む。中米コスタリカとニカラグアの間の、内戦の後遺症でで疲弊した密入国者や密輸物資が跳梁跋扈するであろうこの国境で読んだ本が「磯野家の謎」!

なんとも脈絡の無い読書の組み合わせだが、これしか本が無いのでじっくりと読む。

ひさしぶりの日本語文章の上に、サザエさん一家に対する評論が実に面白く、思わず声を上げて笑ってしまった国境の夜だった。

なお、

「磯野家の謎」につづいて、

今度は「サザエさんの秘密」という、

亜流のパクリのような対抗本が現れたのだが、

「磯野家の謎はけしからん」
と、当時は両者が張り合っており、どうでもいい物議をかもしたものだった。

まとめ:活字に飢えるのは快感だ!

活字に飢える。それは食欲や性欲と同じで、禁断症状から脱してむさぼり読むというのは、快感なんですよ。至福の境地です。

日本にいるときは決して読まないくだらない本でも、活字に飢えるとなんでも真剣に読んでしまうから人間の本能と言うのは面白いのです。

しかも、そのときに読んだものがいつまでも印象に残り、その記憶が、旅の宝にすらなる。

なので、活字飽食で便利ないまのほうが逆に飢えるのが難しい、究極の贅沢なんです

不便でよかった、と思う。

そのため、坪井さん曰く

少女漫画に続き、女性週刊誌、も読む。
この感性はかなりしんどい。けど売れるということは興味がそこにある、ということで勉強になった。
もう「日本語に飢える」とか「活字に飢える」という体験そのものが海外にいても不可能だ。
不便だったから、普通なら一生読まないであろうものを読むチャンスがあって、知らないで生きていっただろうことを知った。
不便でよかった、と、思う。

だから、いまの時代だろうが昔の不便な時代だろうが、

不便だからこそ、心に強く刻まれる。

便利さも不便さも一長一短なのですよ。

そして、身近にありながら気づかなかったものを、遠い異国にいることによって知ることもできる。

これから、「日本語に飢えること」はできるか

でも、現代のネットによる情報大洪水の中で、

またあの日のように「日本語に飢えること」はできるのか?

 

当然、日本にいるときはネット漬けの日々なので、その反動で2015年のインド一周のときは、

旅先ではあえてネットをしない、オフラインの旅

を目指してたけど、

結局は毎日のように自分のノートPCをいじくるわけだし、FreeWifiやネットカフェに行ってしまって、ついついネットをチェックしてしまう。

だから、私もかつて「日本語に飢えまくった経験」を味わいましたが、2015年のインドでは、日本語に飢えることはなかった。

いわんや、今後自分のネット稼業が本格化すれば、旅先でもネットで更新しなきゃならないから、日本語に飢えるという行為がもう死ぬまで不可能になるんでしょうね

さいごに、差がわかる収穫

ただ、自分の場合、小さい頃からネット世代ではないので、アナログとデジタル世代の両方を知っているので、その神のような利便性の差がわかるのが、あるいみ自分にとって収穫です

もし、日本語に飢え,むさぼり読むような快感を味わいたいのなら、

まずは、ノートPCやタブレット、スマホの類は一切持たないで世界を旅しましょう。

さあ、あなたにはできますか?