山奥のニートに思ったことと、たたかうことの意味とは

日常生活
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きのうのつづきになりますが

先日の日曜日、テレビで山奥ニートのドキュメンタリーを見ました

自分は山奥ニートの事を事前に少しは知っていたので、面白かったし楽しめて良かったけど、やはり賛否両論あったみたいね。

エゴサーチするとがく然とするらしい。

産まれた子供を共生舎でみんなで育てたいと言っていたが、それはグッドアイデアだと思う。みんなで育てれば面白いし。いろんな人がみてくれることで、親の負担も軽減し、のびのびと育つし。

そうなるとケチつけるのがいるけど、そもそも子供をみんなで育てるというのは、アラブの国とか、フィリピンとか当たり前なんだよな。かつての日本もそれが当たり前だった。

人間なんて、完璧な人間なんていやしないし、一人で生きてるわけじゃないので、助け合えばいいだけの話。助けが欲しかったら助けてもらい、そして自分に与力ができれば、今度は助けたげればいい。

縁のない赤の他人にあれこれ言う暇があったら、自分のことをやればいいだけのこと。自分のやりたいことができれば、他人に対して物言いする暇はないはず。

親である以上はああしろこうしろ、こうあるべきだなどと「べき論」でケチつけるやつがいるから、萎縮して、少子化が進むんだよな。揚げ足を取るような多様性無きくだらない世の中になってしまう。

「(彼女に対するコメントは)誹謗中傷ではなく批判だ」といってるのがいるけど、何で赤の見ず知らずの他人を批判する権利があるのだろう。批判するほどそんなに偉いのだろうか。まあそんな人間はどうせその程度の生き方しかしてないんだろうけど。

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たたかうことを放棄してはいけないと思った

戦うと言っても、どつきあいとかケンカとか騒動とか戦争ではなくて、

おかしなことには負けない「不屈の精神」というべきか。

自分の生活を守るため、尊厳を守るため、自由を守るため、の処世術というか、たたかい。

 

メキシコのルチャ・リブレだって、訳すと闘い・自由、だから、自由をつかむために困難とたたかってきたわけだ

見ず知らずの人間を批判するひまがあったら、そんなに不満なら、権力とか、富の一極集中とか、強いものに対して批判すればいい。

権力や我欲にまみれた政治家やら、豪遊の限りを尽くしても宇宙に行けるぐらいの大富豪など。

同じ人間なのに、貧困層も多数いれば月だか宇宙に行くほどの天文学的な格差がでてるので「富を是正せよ」と怒ればいい。弱いものを叩いてどうする?

人間と言うのは、理想とキレイゴトだけで生きてるわけじゃない。悲しみ、嫉妬、怒りの概念もでてくる。

だからこそその負の感情を、より良い方向、よりよい自分への将来や、社会のパワーに変えるべく「正しくたたかう」必要も出てくる。

だけどこの国ではそういう概念がおざなりになってないか。国民は骨抜きにされて、都合のいいように振り回される。

ただしくファイトするべきなのに、そのベクトルがゆがんだり間違ってたりするゆえに、その矛先がさらに弱いものや、くだらない方向に向かうのではないか。

 

西洋の社会では「Fight」という表現がよく出てくる。

たとえばオーストラリアに住んでた時、Dick Smithのパンに塗るピーナツバターのパッケージには「We’re fighting back(反撃・抵抗、やりかえす)」と書かれてあった

つまり、「我が社は、自国の産業や尊厳を守るために、ライバル会社の外資に対しこうこうこういうことについて闘います」と書いてあるのだ

このデンマークでもそうだけど

たかが自転車道を走るだけなのに、「気候変動と戦います」というと大仰できざったらしいかもしれないが、それぐらいfightな意識があるのだと思う。

何年もいろんな海外の国にいたけど、ほかの国に比べて、この国はだんぜん人の自由に対してかみついたり否定する空気があるから、この国は生きてても、どこか面白くないんだよな。

常識を超えた生き方もできるインド。

金王を夜風にさらすサドゥー。インドにこそ、究極の自由があるのではないかと思う