今回の旅で最大の鬼門だったジンバブエ。
それは、この国は白人追放政策をした結果、経済破綻してしまい、めちゃくちゃなインフレのため、なんと1000億ドル札までだす(いや、後日100兆ドル札までだしたと知り、さらにおったまげる)という狂った国になってしまいました。
その結果、物資も無くなり、コレラや餓死者まで発生。
なのでてっきり北〇〇のような国だとおもってしまい、アフリカに来る前は本当に恐れてました。
だけど他のアフリカ諸国を旅してるうちに、ジンバブエだけ穴を開けるわけにはいかんと思い、いや、むしろ経済崩壊した国が、どんな状態なのか見てみたいぞ!
ということで、ジンバブエに入国しました。
レゲエの入国審査官で、印象が激変。
2009 5/13
モザンビークからジンバブエに入国。モザン出国は問題なかったが、
ジンバブエ入国にかかった費用は
Visa Single: US$30 T.I.P. $10 Carbon Tax $6 Insurance $20 Total $66
人と単車で66ドルなり。どの国も金がかかる・・・
低地のモザンビークと違いジンバブエは高原国家なので、山を登ったところに国境がある。
モザンビークのベイラ港あたりから取り込んできたであろう、ジンバブエナンバーのタンクローリー車
群馬から峠で軽井沢に行くような感じだ。低地のモザンからくると気温気候もがらりと変わる。
ジンバブエの入国審査官は。中年の審査官だったが、ドレッドのレゲエバージョンと、ミュージシャン風のいかす中年なのに、しかもネクタイをしているわけだから、そのギャップが妙にかっこいい。
請求された金額は11ドルではなく16ドルで、ドレッド審査官のミスだったけど、なんと、彼はちゃんと謝っていた。しかも、二度も謝っていた。
ある意味、目からウロコじゃ・・・
オサレでありながら、自分の非を認める紳士ぶりに。アフリカでははっきりいって珍しい。
そのため、性悪審査官のモザンビークに比べれば、ジンバブエは非常に印象がいい!
世間から見れば、ジンバブエは最悪レベルの独裁腐敗国家とされてるのに、入管員はこんなにお洒落でここまで紳士的なのはなぜなんだ???
マスコミはおろか、ネットの口コミにすら踊らされているってこと?
担当の入国係官は、すごいセンスがよく、ジンバブエのイメージが変わってしまった。
モザンビークとはえらいちがいである
おそらく、イギリスが統治していたのと、共産国家が統治していたのでは、そりゃあそれぞれ役人も変わるということなんだろうね。やはり百聞は一見にしかずなのだ。
でも通りがかりのおじさんから、ストーリートの両替するなといわれた、再度言われた。
その時ジンバブエでは米ドルや南ア・ラント払いとなったのをこの時初めて知り、あの「伝説のジンバブエドル」も、ただのクズになってしまった2009年時点、50000000札をだしてくるのがいたが、あんなのに両替したら最後である。
国境近くの町、ムタレの実態とは
モザンからジンバブエに入国すると、いきなり英語のみで、ポルトガル語は一切書いてない。
そして入国早々、拍子抜けしたのがこの看板。
DIESEL NO
PETROL YES→1.08
意外や意外、ペトロール(ガソリン・1リットル1.08USドル)も手に入るではないか。ガソリンが手に入らない事には先に進めないという懸念だったので、安堵。
そのガソリンスタンドの中の店に入ると、品は少ないものの、オレンジビスケットが70セント、200gのビスケットが1ドルなどと、そんなに高くない。全く何もないわけじゃないので安心。
なお、問題の通貨払いがどういうシステムなのかは、次回に述べる。
国境から、日本の3桁国道のような山の国道を進むと、交差点。来た道は、モザンビークの港湾都市ベイラ行き。
ムタレに到着。
景色と言い、空の色といい、モザンビークとは異世界である。
クラシックな感じが入り混じる。
モザンビークとは雰囲気が変わる。
オーストラリアのような雰囲気の、とてもいい街並みだ。
というか一気に南アに戻ったのようになった。
いや、南アよりもレトロでいいかも。
古きよきジンバブエに戻りつつあるかもしれない。
ただ、道路などメンテされず、やはり疲弊したような雰囲気もある
高原の町ということもあるが、モザンビークとは服装も変わる。
意外にスーパーでは南アフリカと変わらぬぐらい物があふれている。
SPARで一切れ1.30ドルのレモンチーズケーキを買った。
サイズも大きい分、味も大味である。ビニール袋に入れるもんだから形も崩れてもうた。
そのほか、トマトチキン200g1ドル。Polony Roll 40セント 、キューイフルーツ6個30セント。これが昼食、残りを夕食。
といっても、自分が来たときはジンバブエの経済が回復したために普通の生活に戻りつつあるが、これが一年前とかだったらモノがなくてもっと大変だったかもしれない。
ムタレの住宅街の宿で、感傷にひたる。
モザンビークはちっとも落ち着かなかったので、ジンバブエで少し休みたい。この国は思ったよりも平穏だったので、ほっとした。
ジンバブエは、今も昔も治安が極悪なのに、かつては旅人の沈没名所だった。まるでエクアドルだ。その理由が、ジンバブエを旅するうちにわかっていくのである
Mutare Travelers Rest US$10
メインロードのHerbert Chitepo st.とeleventh st の交わるところにあり。東アフリカから来ると10ドルは高いが、英国風のクラシカルな御屋敷の一室となれば、文句なしのクオリティ。
昨夜は野宿で不眠気味だったため、今日は午前中に早々と宿に泊まり、午後からは一室でのんびりする。
我がPCで日本の音楽、ナツメロを聴いていると、日本のことが懐かしくなってくる。ホームシックのようなものか。いかん、聴いているうちにはまってしまった。
この、ムベヤのイギリス風の瀟洒な住宅街の屋敷。
どこか寂しげな、
晩秋の昼下がりの翳りゆく部屋の中で・・・・・
ひとり日本の歌を聞き続けるうちに、
とにかく郷愁を感じてしかたがない!
せつない! 苦しい!
そして31歳8ヶ月にもなって、実らぬ恋をしている今の自分。
おかしいやら、なさけないやらで、
日本より遠く離れた、破綻国家ジンバブエの片隅。
夜になり、6時半に停電で真っ暗の部屋。
もう早めに寝よう。肌寒いし。18度しかない。
マラウイのリロンゲで仲間と別れてから、やっぱり孤独だ。ひとりぼっちだ
経済崩壊国家からの「つぶやき」
ヘッドライトの光でなんとかシャワーを浴びたあと、真っ暗な部屋の中で布団にもぐりながら思うことは・・・
世界一周していた10年前のころとはもう違う。
むかしは2年でも4年でも放浪してやろうと思っていたね。
しかし今はそんなもう長旅・ロングジャーニーをするような気が起きなくなってきた。
やはり日本の仲間や、好きな相手がこいしい。
あるいみ硬派の冒険家だった若き日の気負いからすれば、なんだか情けない。
でも、日本に友人や仲間がいるだけでも、スバらしいことではないか。
友人もほとんどいなく、日本を捨てる気すらあった、とんがっていたあのころと比べると。
でも、あのころの達成があるからこそ、今の自分、そして友人たちがいる。
まあいまの旅では壊れやすいハイテク機器を所持している、というのもあるけど。
その点10年前の世界一周はアナログだった。思えば宿に泊まってもコンセントなんか使ったことが無い。
サイドバックにはコニカの青い36枚撮りフィルムをたくさん入れてたな。
ヨーロッパの73連泊野宿なんて、もう無理だろう。
途中出合った世界一周中の旅人のように「旅は3ヶ月で充分になってきた」というのもうなずけるようになった。
一ヶ月は本腰で、二ヶ月目は一息のんびり休息、三ヶ月目にまた本腰で旅をする。
カメラを盗られてから、よけいにそう思う。コンパクトカメラみたいな予備機でこれから2ヶ月も使うのはしんどい。
まあ、それまでのカメラが予想以上に長持ちしたのかも。
これまで、アベックで旅しているのを見かけたが、それに触発されたのだろうか。
旅をするのに、女性の相手の一人がいてもいい。
しかしこんな不安定で低収入の風来坊にだれが着くというのだろうか
傍から見れば変人かもしれないのに。
いまはまだいいが、40近くになってもこのように単車でフラフラするのは、ある意味むなしい感じもするのではないか。
たしかにNKLで出会ったやっさんも言っていた。「年齢があるからもう仕事に就かなくては」と。
そのころになったら、身を固めようか。
・・・・・・・
意外にヒマだ、どんどん進む方がいい。
もし経済危機が続いて、物資やガソリンがロクに手に入らなかったら、ムタレからは再びモザンビークに引き返す予定だった。
しかし大分経済も元に戻りつつあり、ガソリンなども手に入るようだから、首都のハラーレに行こう。
とはいえ、夕方からずっと停電で真っ暗で何もできないままなので、そのまま21時就寝。
走行65Km