2011年のブログ記事まとめ

旧記事のアーカイブ
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2011年に書いた過去のブログ記事を、この1か所にまとめました

‘11!

あけおめでございます良い年越しはできたでしょうか。

昔は、カウントダウンパーリィとかに行ったけど、そのあとがつらい。悪酔いのうえに人ごみにまみれてクタクタになって帰るのが辛かったです(笑)

なのでいまではテレビ見ながら静かに新年を迎えるのがいいです。

昔に比べりゃ元気がなくなっていますね。

と、去年と同じようなこと書いてしまったが、本年も宜しく御願致します

 

以前の日記で2010年は未来的、といいましたが、

とうとう2001年はもちろん、2010年すら過去のものになった。

2020年となると、昭和の子供にとっては、どうしても人類火星到達!とかいうSFイメージになってしまうね

 

去年2010年のできごとはというと、アジア放浪していましたが

とくにみんなでタイを旅したときがいちばん超最高でした。

でもアジアの旅が終わり、いまはかつての興奮もありません。

とりあえず今年は、地味に生きます。というか、地味に生きざるをえないのである。 む、無念

 

初体験☆ほっカイロ@館林

きのう、群馬県館林市のパチンコ店に行って来た.

なぜ館林のパチンコ屋?

というと、S氏が、そこで整体カイロプラティック研修をしているので、水曜日の1~4時は無料で整体をうけられるのであります

休憩所をブースで仕切られているコーナーにはSさんと先生の二人が施術に励んでいました

カイロ、とてもよかったです。館林に行ったかいがありました。とても気持ちいい。

気持ちよさのあまり眠くなりました。体の硬さも取れた気がします。

血行もよくなったので体もあったかくなってきた。これがほんとのほっカイロ。

 

そして施術後不思議なことに、まるで魔法にかかったかのようにストレスが消えて、気分が上向きになりましたね。

マッサージを受けただけでなく、カイロで成功している先生の生き方(どん底から繁盛している)を聞いたことで自分の生き方にヒントが出来て、自信が出てきたからかもしれないです。

S氏&先生に感謝。

東日本大震災 「どん底と恐怖と計画停電の一か月」

いまでは信じられぬぐらい緊迫した日記になっておりますので、

当時の緊張をぜひ味わってください。

2011年に書いた311のブログ記事を、

この1か所にまとめました 0-154

きのう(311)の夜

やっと日記を書く気になれてきたので書いておきます

昨日の地震について、ボイスより: 震度5強の地震で、棚の上の軽い書類や紙はたくさん落ちたが、大きな戸棚とかは倒れていない。電話通じず、防火装置作動のためガスが使えずそのほかはOK。こんな地震人生初めてだが、これだけですんだのは幸い

(2004年の中越地震のときもやたら長く揺れて気持ち悪いぐらいだったが、今回の揺れはそれよりさらに強かった) その後もまだ余震が何べんもつづいている。これはもう異常。地震が永遠に続きそうな錯覚。

 

昨日の地震の夜は、自分の人生での中でも一番まがまがしい、おぞましい夜だった。

マンガや映画でしか見たことのない、都市が滅亡するシーンが現実に起きていた。スマトラで起きたあの巨大津波の被害が、日本でも起こったなんて。

特に三陸地方は、仙台から気仙沼、大船渡、釜石、宮古、八戸と旅をしたことがある

とくに港の空き地で野宿をし、午前中は街中を巡った気仙沼では、津波で街ごと流され、さらに夜は火の海と化した。

あまりにも禍々しすぎる。

人間のすることに容赦はあっても、自然は決して容赦してくれない。テレビやネットで見せ付けられたのは、そんな無慈悲な現実だった

自分は無事だったとはいえ、これからいろんな面で弊害がでてくるとなると気が滅入る

夜中の二時だというのに、ありえない事にからすが鳴いていた。凶兆を告げているのか、あまりにも不吉すぎる。そしてその後、またも地震が起きた。今度は信越の地震だった

大地震から夜中まで20回ぐらい揺れたのに、その夜中で10回は揺れた。そんな群発地震のため、おちおち寝てられない。

阪神大震災のときは、東日本ではたいした揺れでもなかったので実感は無かったが、しかし今回は、何度も続く地震、言ったことのある場所、都内でもうちの知人友人も苦労していた。

そんな恐怖を本当に身をもって味わっただから身にしみた

今日は大丈夫だったが、今でもたまに小さな揺れがある。

とにかく、ひとりでも悲惨な目から脱出し、一日でも早い復興を目指すのみ。

 

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これからを生きるために!

どん底に叩きのめされ、恐怖に突き落とされても、これからを生きるために!

まずは、放射能と原発。MITの研究者による解説は、素人判断より説得力があります。

http://d.hatena.ne.jp/arc_at_dmz/20110316/fukushima_nc_power_plants

http://blog.livedoor.jp/lunarmodule7/archives/2406950.html

放射線の影響に関してはこちらの方が参考になります(まだ途中ですが)

https://twitter.com/team_nakagawa

無用な社会混乱を生じさせないためにも、落ち着いて行動しましょう!

買占めはせず、ガソリンが充分に出回るまでは自動車やオートバイは極力使わず、自転車や徒歩、電車で移動しましょう!

その結果、被災地への物流を滑らかにし、結果的に被災地への立派な貢献になるのです!

 

そして、マスメディアにはなかなか出てこないが いわき市や茨城北部では、原発区域に阻まれて物流が滞っている。

http://blog.goo.ne.jp/drees-bowwow

ツイッターによると、いわきでは、ついに餓死者や凍死者も出ているらしい。

野戦病院や難民キャンプの如く医療機器も最低限しかないので死者が出ている。だとすると混乱期のアフリカ・ジンバブエなどと同じぐらいの危機状態です。

でもこれが、世界最先端の医療技術を持っているはずの日本で起きている、無慈悲な現実なんです

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110317/k10014727811000.html

 

同じ日本でも、災害地ではもはやかつての日本ではなくなり、別の国と化しています。

私もいろんな国を旅していろんな目に遭ってきたとはいえ、このあまりにも想像を超えた東日本大震災に絶句し、心労と食欲不振と不安のため、体重がいっきに3kgも減りました。

しかし、困難を乗り越えて、明日を信じて強く生きましょう!

思えば、それまでの日本の社会はどこか狂ってた。

未来のない人々(自分も含めて)、サービス残業、人身事故の自殺増加。その他もろもろ。

諸外国にくらべれば豊かで贅沢なのに、経済は落ちるだけでそれでいながらバブルが終わってもなお虚栄なる欲望が残っていた。

とくに年々増える人身事故は、あきらかに異常に向かっていると思ってた矢先。

日本の社会は閉塞感だらけの行き場のないどうにもならない状況に行き詰っていたと思う。

そこで起きた未曾有の大震災。

ジリ貧から容赦なく一気に叩き落された日本は、別の意味でたくさんの苦難が待ち構えている。

「痛みを伴う改革」

気がつけば「援助される側」の国になり、欲しい物も買えなくなった。

しばらくの間は、「先進国」というプライドは置いていかねばならない。

 

落ちるところまで落ちるだろうが、復興すれば登っていくのみ。

それこそが、本来の本能を取り戻し、人間として生まれ変わるきっかけになる

http://blife.exblog.jp/16062325/

東北とはあまり縁のない四国や九州などの西日本からも、

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/232036

そして世界中の国々からも励ましてくれている。(日章旗のもあって、一瞬(?)と思ったが、「日はまた昇る」と考えればとても理にかなったデザインだと思った)

 

それまで景気の悪い時期に生きて励ましてもらえず、自信をなくしていた若者たちも、きっと気づいてきたと思う。

君はひとりじゃない。

自然と前向きになっていく。

そんな世界中からの励ましを受けた以上は、期待に応じられる、いい生き方をしなければならない。

取るに足る豊かさでいいから、もうあくせくがつがつせず、ストレスの少ないバランスの取れた素晴らしい新生日本を建設できればとおもう。

落ち着きませう

もし余分に買ってしまったら、その食品を食べるまでは買い物に行かないように。

「足るを知る」という言葉をかみしめてほしい。

一人一人の募金だって、金額の問題ではない。 今回の巨大震災では、義捐金だけでは到底足りず、国家予算を投じることになる。

それより、被災地のことや、これからのこの国のことを考え、

身近な事でも自分なりに実行すればいい。 その気持ちがあればいい

食品にはわずかな放射能がつくかもしれない。でも人体に影響ない限りの量なら、食べなければならない。それが原発の風評で苦しんでる現地の人を励ますことにつながる。

 

あー、たまには震災以外のネタを書きます

 

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/it/2790940/6965847

海外のSNSってなんでシステムがこう大味でいい加減なんだろうね。

本名を出さなきゃだめだし、住所や携帯電番を載せる欄があるけど、信じられない。

あちらのくにはお得意の自己責任で、というかもしれないけど、まだこんな思慮分別もない10代もいるから、限界がある。

ミクシとちがうのは、自分の顔写真を載せている女の子がほとんどということ。だとなるとこういうことだっておきてくる

あだ名でいいじゃないか。もう一人の自分でいいじゃないか

ビジネスや実用のためにSNSがやくだつというが、娯楽として楽しむためにSNSをやる人がほとんどだ。 ビジネスで使おう、と思ってる人は、運営側の策略にはめられてるだけじゃないのか。

フェイスブックはSPAMが野放しというぐらいだから、そんなのがビジネスに役立つはずもない

本名にすると、逆に「監視」され、言いたい事もかけず、個人の行動が縛られる気がするのだが。 日本人には向かないし、

ミクシにくらべりゃシステム的にお粗末だというので流行らないだろう

 

計画停電については↓に書きました

知っておこう!停電した場合の冷蔵庫の扱い方 ~311の計画停電の経験より~
これは、ぜひみなさんに知ってもらいたい知恵です。先日鳥取で地震が発生し、停電も起きました。そしてこの前は、都内でも大停電しました。つまり、停電はどこで起こってもおかしくない状況です。そこで、みなさんに知っていただきたいのは、「停電時の冷蔵庫...

 

またタイに行ってきました

「タイに行きタイ病」が発作したので、日本でのストレスの療養、発散のためと、そしてこの夏、東北に行くまえに是非ともプーケットなどのスマトラ津波の復興ぶりを見ておきたかったので、実はきのうまで3週間タイに行ってきました。

タイから戻って、成田空港の外を出てみると成田はタイよりすずしくさわやか、と思った。ところが、熊谷に戻ると、空気がもう暑い。タイより暑いじゃないの(笑)

結論から言うと、激しい津波の被害を受けたプーケットのカマラビーチや、特に壊滅されたとされるカオラックを訪れた結果、本当に津波の被害があったのか?と思えるぐらい元通りの、そして新しい町並みになっていました。

その計算でいけば、2017年の石巻や気仙沼、陸前高田などの沿岸都市も、きっと新しい町に復興してるとおもいます。

タイの被災地で、東北被災地の明るい将来が見えた。詳細は後日。

タイには原発が無い。その代わり、空港から都心へ向かう列車からバンコクの夜の町なみを見ると、日本の節電がお遊びに見えるほど、街の明かりがとても暗かった(特に住宅街は真っ暗!)

当然庶民の家ではエアコンもない。でも治安が良いし、明るく生きているんだわさ。

脱原発して生きたいのなら、タイに学べ。その覚悟は日本人におありか?

スマトラ津波の被災地はいま

スマトラ津波から6年経った2011年6月,プーケットを起点に、津波被害に遭ったアンダマン沿岸の村を訪れました。

After the Sumatra Tsunami in Thailand.

Just 1 year from havoc.Visited in the severe disaster area of Sumatra Tsunami in Phuket and Khao Lak, Phang-Nga. Jun-Jul 2011

 

Patong Beach

プーケット島の西岸にあるパトンビーチは、当時、海に面したところは1階部分が壊滅したという。石巻と同じぐらいの被害か。

もはや津波の傷痕はまったく見られない。

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すばらしいパトンの夕日。

くノ一?ならぬムスリム女子、波とたはむる

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Kamala Beach

バトンビーチの北にあるカマラビーチ。バトンよりもさらに被害の大きかった。ほとんどの建物が全壊したらしい。

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Khao Lak

プーケットより北へ100kmほどの、パンガー県・カオラック ここがスマトラ津波で一番被害が大きかった村。タイ国内の死者5000名余のうち、4000もの命がここで失われた。南三陸町のような被害だろうか。

バンコクとマレーシアを結ぶ国道4号。このカオラックあたりはまるで三陸をつなぐ日本の国道45号にそっくり。アンダマンの景色も、三陸とよく似ていた。

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その国道4号も、カオラックではメインストリート。海抜15~20mほどの高台にあっても津波は押し寄せたという。

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海辺の集落のような小さな静かな村なのに、マリンスポーツの村なので西洋人御用達ゆえ、なんとマクドナルドがある!(でも客がとても少ない)

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英語の看板、ダイビングショップ、画廊、インド人経営の紳士服店、ニューハーフのキャバレー(ぉ

など、無国籍な町の雰囲気。それらは津波に備えたためか4号沿いの高台にある

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海辺の写真。

メインストリートの国道を下りて、ビーチに。津波の危険があるにもかかわらず、リゾートや店も新しく建てられていた。まばゆいばかりに新しいのもあれば、古く見える建物もある

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とてもすばらしいカオラックの夕日。

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But when I visit at there, there are reconstructed completely the town As if nothing had happened.

as result, probably the disaster area of Eastern Japan will reconstructed in 2017.

御覧の通り、現地に行くと、悲壮感は一切ありませんでしたよ。

スマトラ津波の直後は、あまりの被害に一時は“復興不可能”と言われた町も、いまでは本当に津波があったのか、と思うぐらいに見事に復興!Viva!人間の力!

東日本の被災地も、6年半後の「2017年9月」になったら、このように復興できることを祈ります。

アナログ放送を「人生」にたとえると、本当に怖いことが判明!

アナログ放送終了 58年の歴史に幕

先ほど、アナログ放送の最期を見届けた。

実際には1分前の23時59分には停波が始まったが もういまは本当に砂嵐しか映らない。

Xデーは本当にやってきた

アナログは永眠した。

合掌。

DSCN0914

 

でもこれ、「人間の人生」にたとえるとこれほど生々しく不気味なものはない。

10年前に治療不能の病気を宣告されて(アナログ終了決定) その間は普通に生きていたが、

一年ぐらいまえから体を蝕み始め(画面にテロップが流れ始める)

24日の12時に危篤状態に陥り(番組が映らなくなる)

25日0時になると心電図が途絶え(停波)、死ぬ。

いままで何十年も喜怒哀楽をともにしてきた相方が、一瞬のうちに全てが無くなる。

そして、泣いても叫んでも、もう戻ってこない。

一人の人間の生涯のように思いました

享年58歳。

人生も同じ。

そう思うと、妙に怖いものがある。

「311から被災地までの道のり」

2011/8/21

震災より4ヶ月経った2011年7月下旬に三陸沿岸被災地(石巻~八戸)を訪れ、そのさいボランティアをしました

たしかにはっきりいって、大震災という内容とあって書きずらいテーマです。

自分の書いたことが世界中に発信されるウェブサイトで10年以上物書きしている以上、読み手に不快感などを与えぬよう注意を払います。

が、やはり、あまりに気を配った包まれた表現だと、現地での真実が伝わらないし、有りのままではなくなり、意味がありません。

ボランティアのさい被災地の方とお話したことがあるけど、その方は「一人でも多くの人にこの被災地に来て、見て欲しい」と仰っていました。なので事実を書きます。

現実から目をそむける無関心ではいけません。

といいつつ、かつての自分は震災の現実から目をそむけてました。

が、実際に被災地に行ったことにより考えが変わりました。

行ける余裕がある人は、ぜひ被災地に足を運んで現地の事実を見て、感じて欲しいと思います。

被災地に行った事がない人たちにも、包むことなく現場での事実や「自分が感じた事・思った事を率直に伝える事」も、ボランティアのひとつだと思っています。 なのでこの本文は、読む人にとっては不謹慎・不適切な表現もあると思います。

どうかそこのところはご容赦ください。

「311から被災地までの道のり」

3月11日の昼下がり。

本棚からは本や書類がばっさばっさと落ちている。その強い揺れが異様に長く続いている。

忘れもしない日だった。

生まれて初めて味わう震度5強の地震。2004年の中越地震のときも強い地震が長く続いたが、今回のはそれよりも長く強く、しかも震源は中越よりも離れた東北だという。

「これはとてつもなくとんでもないことになるぞ」

と悪い予感がした

そしてテレビからは、津波映像。ハルマゲドンのCGの映画ような、悪夢が現実となった、信じられないぐらいおぞましいシーン。

平凡な一日から、何の前触れも無く突然どん底に叩き落とされた一日だった。

計画停電、大混乱、放射能。

店も閉まり、電車もまともに動かず、ガソリンも手に入らない。東京に出ることさえ出来なかった。

都内に出るなら、自転車で片道6時間かけて行くしかないと思っていた。

恐怖と絶望のため、笑う事を忘れ、死んだような表情になり、震災後5日間で3kgもやせた。

それでも、自分に出来る事は何か? ボランティアか?

でも、いろんな情報を聞いているうちに、なんだかボランティアに行く気が完全に失せてしまった。私のような者がボランティアに行っても、戦場のような現場では邪魔になるのは明らかだと思った。

それどころか、無意識のうちに、震災の事はなるべく忘れよう、としている自分がいた

6月。

6月中旬からはフリーになったので、タイのスマトラ津波の被災地へ行ってみた。

プーケット島で125ccのカブをレンタルして、ツーリング感覚で現地へ行くと、被災地は見事に復興されていた。これなら6年後の三陸も復興するだろうと。

しかし、その思いは三陸の現地を見てみごとに吹き飛んでしまう。

そして、7月下旬。

被災地にもいくらかの余裕が戻ったということで、ボランティアに行く事にした。

某2:50の人じゃないが、お金がなければ、体で払おう、と思っていた。

世界一周をした冒険人として、お金を払って募金で済ませるぐらいなら(というか、その前に自分自身にお金がない(笑)

是非現場に行き労力を提供し、汗を流すほうがスッキリするだろう。人のためになるし、自分のためになる。

その後は国道45号を北上して被災地をまわりながら青森ねぶたに行く事にした。

ところが被災地に行くと、テレビやネットで見るのよりもあまりに想像を超えた被害と景色に、自分の人生観は見事にSmashされてしまった

三陸の行く先々の町で、破壊された町並み。

南三陸町、とくに陸前高田市は、街そのものが完全に消滅していた。

震災後はじめて南三陸町を訪ずれたときは、はっきりいってそこは地獄だった。

地獄。

凄惨。

悪夢。

戦争など、人間がすることには容赦することはある しかし、自然のすることに決して容赦はしない。

淘汰された311のあの日。

 

 

災害派遣等従事車両証明書

 

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7・22日に、その来週のために、市役所へ申請しに行った。外では昨年と変らぬ祭囃子が響いている。

待つ事30分。

これで我がジェベル200も、

災害派遣等従事車両になった

人生初の経験である

このような扱いになるとは思いもよらず

南国タイで見てきた津波の復興を胸に、さまざまなものを背負って、北へ向かう。

 各地の状況(2011年7月下旬現在)

仙台市・若林区

仙台東部道路に差し掛かったところで、海が近くなり、テレビで見たことのある、見覚えのある景色が見えた

そこは平原のようになっており、クシの歯が抜けたような松林。

今では、色とりどりのクレーンがぽつぽつと点在しており、都市部に近い事もあって復興も早そうだった

石巻市

今回の被災地で、初めて訪れた町。

三陸自動車道から石巻にきたときは、国道45号は何の変哲もなく、がんばろう石巻、東北の張り紙がやたら多いぐらいかな、というぐらいで平和そうだった。

ところが・・・・・中心街に入り、港へ下ると様子が変ってきて、そしていっきに世界が一変した

電気の付かない壊れた信号機を発見する、と同時に町並みの全体がクリーム色に変色していた

津波の濁流を浴びた痕だった。

そして石巻の漁港に着くと、いくらかの建物は破壊され、残った全ての建物の1階部分は全て壊滅。

港の道路は、「鯨大和煮」と書かれた缶詰の形をした巨大タンクが道路の中央に撤去されぬまま残ったままで何メートルものうずたかい巨大ながれき置き場からは異臭が漂う。

立ち止まると、おびただしい数のハエや、見たこともない黒い小さい虫が目の前を飛びまくっていた。

その景色は2年前に訪れたアフリカ・ナイロビのスラムを思わせた

登米市

内陸部に位置するので津波とは無縁かもしれないが、ハエが多く発生するようになり、震度6強の大地震で迫町内の街中の道路は至るところで損傷。マンホールのあたりが盛り上がり、段差も多く、そのたびに速度を落とさなくてはならない。

http://www.city.tome.miyagi.jp/bousai/syasin-higaijyokyo.html

南三陸町 志津川・歌津

登米市から丘を降りて志津川の街に出た途端、町のほとんどが破壊されていた。絶句。

まだがれきが残り、各県から来たパトカーが行き来し、よそからの見物人も。

空襲を受けたような街でも、ライフラインとなるガソリンスタンドのみ営業していた。

気仙沼市

気仙沼の駅周辺は問題なかったが、港に近い気仙沼の街中は、廃墟になっていた 残っているのは車や建物のがれきだけだった

さらに大島行きのフェリー乗り場があったあたりは、地盤沈下で海水が近くまで迫っていた。

通る車はみなドロを浴びていた。

陸前高田市

ここは自分の見た被災地の中でも、もっとも被害の激しかった町だった

南三陸では警察やボランティア、見物人の姿が見られたが、

ここ陸前高田では、がれきは撤去されたのか、全く何もない。人の姿も見られない。

見わたす限り、廃墟と化したいくつかの建物以外は本当に何もなく、原爆が落とされたような光景に、声を失う。

釜石市

夜についた釜石の街中は、ゴーストタウンだった。丘の上の住宅は電気が灯っているものの

1階部分が破壊された商店街は真っ暗。 しかし、それでも、現地の若い女の子が何事もなかったように歩いていた。

中心部のホテルとコンビニと居酒屋は営業しており、そこだけが明るかった

希望の光に見えたのは言うまでもなかった。

宮古市

上記の市に比べれば、港のあたりが被害に遭っていたが、市街地自体は平常どおりだった

田老町(宮古市田老)

度々津波被害を受けている田老。

その教訓を生かしスーパー堤防を作ったものの、今回の津波で越えて、志津川のような被害となった。

どんなに英知と労力を結集しても、自然のカタストロフィには勝てず、人類の限界を思い知らされた瞬間だった

久慈市・八戸市

津波直後は船が陸に打ち上げられたが、4ヶ月経った今では、港のごく一部を除けばほとんど被害の痕跡はみられなかった。

津波被害地の特徴

登米から南三陸町志津川にいく。丘を降りると、凄惨な被害地域が広がる。

ところがそこからR45で気仙沼方面へ北上し、丘を登っていくと、なんと何事もなかったように家々が立ち並び、そして何事もなかったかのようにコンビニも営業していたのに驚く。平和そのものだった。

しかし。また丘から降りると、再び凄惨な景色が広がる。そして丘に上がると、普通の景色が広がる。

たとえば洪水や巨大地震などで、被害地域が延々と続くのと違い、三陸の津波被災地は、めちゃくちゃになった地域と平和な地域が、文字通り波状的に交互に繰り返されていくので、それを見ているうちに自分でもわけがわからなくなり、正直、頭がおかしくなりそうだった。

 

現地でかんじたこと

「気仙沼で見た、心に刺さった看板」

2008年に気仙沼の港で野宿したことがあり、震災後の今回、どうなっているのか是非そこを訪れようと思ったが、できなかった。

その景色は、震災前と比べ、がらりと豹変していた。

港の端への道路は未舗装の穴だらけになっており、地盤沈下のため道路が海水をかぶっており、その先を行くのは危険そうだった。無理して行くのも現地のトラブルの元になるので断念した。

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壊滅された町並みが続くその一角で、こんな小さな看板を見つけた。

「何度でも立ち上がる」

「絶対に負けない」

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これを見た瞬間、ナイフでズタズタに刺されたぐらいの衝撃と痛みを受けた。

.

この時ほど、己の軟弱さを恥じたことはなかった。

もし自分だったら、気仙沼を捨てて、すぐに別の町にうつってたかもしれない

しかもふとストレスや不満が溜まると、何度も死にたくなるときもあったが、そんな己の考えが、いかにダメで甘い考えだったか。

ところがここに古くから住む人はちがう。津波の悲しみと絶望と怒りをパワーに変えて、必死で生きようとしている。

たとえまたいつか津波が来ようとしても。

※あとになって検索して調べてみたら、「コヤマ菓子店」さんのページでした

http://koyama.shop-pro.jp/

 

「お金のいらない世界」

ボランティアとして物資の搬送のため、南三陸町・歌津中学校へ。

海に面した歌津の町はすでに壊滅しており、高台にある歌津中学が避難拠点となっており、校庭の隅には仮設住宅が出来ていた。 中学校ではその日、祭りをやっていた。

縁日があって、かき氷、焼きそば、いろいろあるのだがほかの縁日とちがうのは、被災者のための祭りなので、全て無料。行列が出来ている

値札を見たら、値段はスマイル0円!!!

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考えて見れば、体育館でボランティア生活しているときはお金を使わなかった。 住と食はタダだった。もちろん善意で送られてきた食料を使ってである。 お風呂がなければ、現地の人がボランティアのためにもらい湯を提供してくれる。

与える事の出来る人は惜しみなく与え、頂いた人々はそのお返しに惜しみなく与える。

近世より、貨幣すなわちお金を通じて社会が回ってきているが、被害にあいやすいこの地域では、太古の昔より被災時にはお金の領域を超えて物々交換、相互扶助、絆で今日まで生きて来た。

逆に、汚く儲けようとする人間は、ねたみも生まれてきて、どんなに所有欲を満たしたとしても、決して心が満たされる事はないんじゃないか?

「お金のために働く事の意義とはなにか?」

「そして・・・お金ってなんだろう?」

地獄のような景色が広がる下界。その丘の上にある世界が、理想郷に見えてならなかった。

 

「未来のジェントルマンになろう」

理想郷な話だけではなく、耳の痛い話になるが、標識も無く、がれきだけが広がる道を進み、丘の上にある保育園に着いて浴衣を届けたときの事。

保育園に着いて、みんなに浴衣を配るために、一生懸命すばやく浴衣の整理をしている最中、私の背中をけってくる子供が二人ぐらいいた。

しかも大人に対してそんなことするのは、いくら相手が被災地の子供だろうと、無礼以外の何者でもないのでムッときて

「そんな悪さをするなら、何もあげないぞ」としかった。

以前、ウガンダの超ド田舎の学校でボランティアしたことがあった。マラリアの汚染区域で水も電気もなく、物も乏しいところだったが、そこの学校の子らはアフリカらしく明るく素直に喜ぶ。でも厳しいしつけをされているため、そこの学校の子供はみんな礼儀がなっていた。

物の乏しいアフリカと違い、ここでは子供に浴衣をわたしても、心から大喜びしてくれる子はあまり見かけなかったが、受け取ったお母さん方からとても感謝されたので、「日本人の気質」と思っておこう。

この浴衣は全国から被災地の子供のことを思って送られた、無償の愛。なので、ボロボロになるまで大事に着てほしいと思う。

いくら自分がIDと腕章とベストをつけて、RQスタッフとして従事しているとはいえ、登米を離れればJOB SEEKER、つまりプータローでしかない

なのでえらそうな事はいえないのだが(笑)小さい頃からも最低限の礼儀は身に着けてほしい。未来の紳士、淑女を目指すのだ。

 

7月まではデリバリー関係の仕事があって(8月から終了)、デリバリー担当の人たちはつい現地の人と2~3時間も話し込んだりご馳走をいただいたりで、戻ってくるのが夜になる、という事がよくあった。

でもぼくはそれでいいとおもっている。 震災直後の緊急性を要する配達は終わっているし、宅配便のように給料もらって分刻みで勤務管理されてるわけじゃない。被災者側にもボランティア側にとって、お互いにとってかけがえのない経験なのだ

2005年のLaptopを使い続ける

我がPC、nx4300の「←」のキーが渋くなったので、キートップを外したら、すごい量のホコリが。

ホコリを取ってはめ直したら、前回(5月18日)は成功したのに、←だと渋さが直らず、しかもキートップが微妙に出っ張っている とくに矢印キーは、一番良く使うので、キータッチがスムーズじゃないと気持ちのいいもんじゃない。

さすがのnx4300も、5年9ヶ月も使い倒しているので、そろそろ寿命が出始めてるのかもしれない DVDマルチはとっくに調子悪いし。

でも6年近く使い続けていると、もはや自分の体のひとつのように使い慣れてるので、ほかのPCに買い換える気は全く無い。

型は古いが、HDDも320GBにまで換装できるので、いま売られているハイエンドノートと全く引けを取らない。 なので多少の不具合があっても使い続けるしかない。できればあと2~3年は使いたい。

そのあとは予備のnx4300をメインとして使うぞお。古いほうは部品取りむけかな。ちょっと調子が悪くなったからといってPCを買い換えるほどバブリー人間じゃないしね。

全然関係ないけど、2005年12月は某HGがフォーフォーのたまい、ビリーブートキャンプが流行る前だった

時代は変わったなあ

99対1ではなく、老人対若者の格差のほうが大問題!

うぉーる街、日本でも飛び火しましたね。アメリカの場合、その1%がめちゃくちゃもらいすぎて、その格差があまりにも狂ってるため。それを横並び社会な日本に持ち込んでもズレている。

オキュパイなんて、ゴロがわるいし、オキュパイトウキョウとなると、進駐軍か!?アメリカの手先みたいで鼻につく。

「オキュパイ・トウキョウ」よりも、「オッパイ・トウキョウ」なら参加者が増えたと思うのに(笑)

アメリカの場合は1%が敵だが、日本の場合は、世代間格差が敵なのだ

これを読めばよくわかる。

世代間格差~若者は犠牲者!? 老人天国ニッポン~

http://news.livedoor.com/article/detail/5061847/?p=1

日本でやるなら「資産のあり余っているおじいさんおばあさん、我々に還元せよ」というほうがずっと効果的だ

太古の昔から、50年ぐらい前は人口ピラミッド型で、子供が多く、老人は少なかった。なので少数だった老人の地位は大きかった

ところが、有史のうちたった50年そこらで人口ピラミッドが急変し、なおのこと老人だらけになると、ありがたみどころか迷惑がられてしまい、日本的に老人を手厚く敬えという、昔の概念のままだと完全にズレが生じまくっている。

べつに「やい老人、働け!」といってるわけではないよ。資産が埋蔵金になっているのがよくない

今の老人は年金などで手厚く保護され、しかも多額の資産を有しておきながら、お金を使わない。

多くの老人は「若い人がお金なくて苦労してるのに、自分たちがぜいたくするのは忍びない。将来の不安も考えてお金はあっても質素倹約ぢゃ」という考えで使わないからだ。そうなると埋蔵金になってしまう.その余ったお金を還元すれば、どれだけ日本が元気になる事か。

はっきりいって、老人が支配されるような社会構造は今後も続くだろう。

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とか上から目線でいうくせに、このままだと若い世代は死ぬまで苦労しなくてはならないのは目に見えているとなると、これは欺瞞ではないかと気づく若人も多いと思う。

そうやって妙な精神論を振り回して、どうも巧妙に甘い汁を吸いまくっているというか。甘下り。

でも若人よ、悔やむことはない。いまの若人はパソコンはもとい、スマホなど最先端のハイテクツールも操れるのだから、「情報強者」である。これほどのアドバンテージはない。もはや老人にとっては脅威だといえる。

世界中の情報を瞬時に手に入れ、情報操作するマスコミとちがって多角的な価値観を知り共有する事が出来る

そのうえで世界に出たり、ボランティアしたりなど、自分から様々な体験や挑戦をすれば、視野がうんと広まり、最高の武器になる。

たとえ貧乏でも、自分なりに洗練された満足した生き様をすればいい

クレジットカードとデビットカード

世界的不況のせいか、リーマンの後、TCが2%になったと聞いて、愛用者としては大大問題でしたよ。そして、このページを見ると、日本だけでなく世界でも手数料値上げしたりしてるのね

「65万人が大手銀の預金口座を一斉解約― ウォール街にノー」

http://jp.wsj.com/US/node_340639

一斉解約といえば・・・うちのところも、いままで8年ぐらい使っていた年会費無料のDCカードが、突然1300円/年かかる事になり、しかも「連絡なき場合自動解約になります」という一方的な感じがモロにプギャーだったので、来年3月いっぱいで解約する事に。

クレジットだけでなく付帯していたETCカードも使用不可になるが、あの「高速休日1000円」が終わり、いまやETCはホコリかぶってる状態(笑)なので、とりあえずETCカードがなくてもまあいいか。

唯一のクレジットカードを解約したら、もうノークレカなので、代わりにスルガ銀行のVISAデビットカードを先月作っといた。ネットで買い物したり決済するとなると、クレカの代わりのものはどうしても必要。

スルガのデビットは、いまは年会費無料だが、そのうち年会費取るようになったらやなので、その間に年会費「永久無料」のクレカがゲットできるようにしとかんと。

PS。

そろそろ新しいテントを買おうとカカクコムにて探してたところ、楽天カードの入会ポイントが目に停まり今朝、楽天カードをダメもとで申し込み、楽天からの所在確認の電話をずっと待っていたら、2時間半後にメールが来た

なんとOKだった!自宅には連絡が来てないのに(登録している派遣会社には在籍確認が来たかもしれないが)

やった!うれしい!しかも入会ポイントつき。ポイントを使うことが出来るのでこれはありがたい。一石二鳥。

今日からDCではなく楽天。クレヒスもためよう。DCよさらば。これで4月以降もノークレカではなくなり一安心。

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