インパール慰霊碑と少女と。家族を持つことの難しさと、過食のツケ

インド2019
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4月20日

7時ごろ起床。自分的には早く起きたほうだが、インパールからコヒマ行きのバスに乗るため早く出発するとおるさん一家は、すでに片づけがすんでいた

一家を見送った後は、今度は自分の片づけ。

私と一家5人の計6人で同じ部屋で2泊したが、大変なことも多かったが、とても貴重ないい経験ができた。

それでわかったことは、あらためて、とても神経質な自分にとって、子供を持つのは正直、無理かもなと思った。

夜中に赤子が夜泣きしたり、小さい子供によって、物を壊されたりもしかねない。とうぜん子供は空気を読まないので、こどもから一方的にああだこうだと言われると、対応が意外としんどいことに気づいた。

まあ、もしお金持ちなら、すぐにベビーシッターに預けるというのもあるけど、それじゃあ何のために産んだのか?という話だし。

そして、両親の愛は大事だと思った。良き両親がいてこそ、子供は生き生きと育つと思う。別居したり片親とかだったら、なんらかのハンデが出てくると思う

2月に抜糸したオシリがまだじりじり微妙に痛む。手術して本当に後悔

日本人慰霊碑へ

そのあと、昨日閉まってて入れなかった慰霊碑に、改めてもういちど行く。

こちらは平和記念公園

 

そして、その近くにある慰霊碑は、現地のおじさんが鍵を開けてくれた。慰霊碑に深く深く頭を下げつづける。

 

日本軍の砲台

「昭和十七年製 大阪陸軍・・・」

慰霊碑のふもとにある丘は、Red Hillと呼ばれるぐらい、日本を含め、たくさんの兵士が死んだ。

血に染まったこの赤丘と、このインドの大地。心から頭が下がる思いだった。

 

私がたどってきたコヒマからインパールの道は、アジアハイウェイでありながら、白骨街道ともいわれていた。

インパール作戦と言う、根性だけで理論を無視したあまりの愚かな作戦や、そもそもの戦争の無謀ゆえに、そのとてつもない失敗の反動で日本は猛省し、その勢いを戦後の復興に向けて、経済大国になった。

おかげで自分のような凡人以下の能力の人間でも、バイクで自由にふらふらできるので、感謝あるのみだった。

その点、第二次大戦時も食料も鉄砲玉も豊富で、兵士にも休暇もあるくらい、うまくコントロールできていたアメリカを見てると、いまなお好戦的な国となっており、全然懲りてないのではないかとすら思う。

最後に、ビニール袋に入った帳簿に記帳する。割と日本人もちょくちょく訪れていることがわかる。

2019年8月15日追記

インパールでは沢山の人間、そして沢山の大日本帝国兵が死に、血に染まった。

その猛省から、戦後、平和憲法が出来上がった。

しかし、くだらない一人の男の「我欲」で憲法を動かそうとしてるが、憲法を変えるほど「偉い」のか?

その独善独裁ぶりが我慢ならない、終戦記念日。

 

世界最大!おばちゃん萌え市場

その後、インパール名物のmothers marketに行く。世界最大の女性(おばさん)の市場だ。

 

中年以上のおばさんが大活躍するこの市場。

おばちゃん萌えの人にはたまらんだろうな。

といっても、すべてが100%おばちゃんではなく、一部は男が売っているので完全な女の市場ではないが。

そんなわけで、インパールを出発したのが結局14時前になってしまった。

行きと同じ、コヒマへの道・すなわち白骨街道を戻る

やはり、山道に入ると天気も悪くなり始めた。そして稲妻が見えて、雨が少しずつ降ってきた

インパールから北の60㎞のセナパティまで来て、雨宿り。すでに本降りなので体が濡れそぼっている

雨宿りの途中、茶屋へ。チャイを呑んだら、揚げたマサラ味のいももちのようなのを食ってけという。まずまずの味。チャイ3杯といももちで20ルピーなり。

1時間以上雨宿りしたら、もう5時半過ぎになってしまった。この街には宿が何軒かあるので、ここで泊まるという手もあるが、コヒマまで行く予定が、インパールを出発してたったの60Kmしか進んでないのはとても納得いかない。

のでとりあえず行けるところまで行こうと思うも・・・

全然雨が止む気配もなく、夜で雨で山道だと、シールドが乱反射して前が見えん!!かといってシールドを開けると、バチバチ雨が当たってくる

濡れて寒いし、危険だし、仮に無理してコヒマに戻ったとしても、遅くに着くと宿も閉まってるだろう。苦行どころか愚行でしかない。インパール作戦2019である

6Kmほど進んだが、これ以上進むのをあきらめた。セナパティに戻ることにした。いさぎよく降参。

すっかり暗くなり、街の中心にあるHotel Eden。一番安いバスルーム共同シングルだと400.

道路から多少離れているとはいえ、物音や下で騒ぐ声や話し声がバカデカいので、とてもうるせえが、400という安さならガマンするしかない。頼んだホットウォーターのバケツを持ってきてくれたりで若いスタッフは親切だった。雨で濡れそぼったので熱いお湯が体に沁みてありがたい。

雨で濡れた服を干すのに引っかけるところがない。ゴムロープでドアの取っ手と引き出しになんとか引っかけた。

屋上を見ると、雨はもう止んだようだが、メインストリートは暗く、ほとんど車の走ってる気配がない。インド極東部の夜はとても早い。全然先に進めず非常にくやしいけど、セナパティで泊まって正解だった。無理して進んで、にっちもさっちもいかなくなって軒下で野宿!となったら悲惨だ。

どうりで寒いと思ったら、室温21℃しかない。ここは標高1050mと 280mしか違わないのに、山間で天気が悪いのでやたら寒く感じる

ゲリをしてからは、きょうもそれまでの反動で、ほとんど何も食べてない。

それまでは毎日インド式に、調子に乗って相撲取りのようにどんぶり飯で何杯も食べていたが、力士でもないのに腹十分や腹十二分だと体をこわしてしまったため、過食はもうやめる!勝手におかわりされても、腹八分にしよう。

0時22 28% ずっとバッテリー 2h26

朝 コーヒー30 アイスクリーム20
昼 アイスクリーム3個30
夜 チャイ5×3 マサラいももち5 チョコカップケーキ10
宿 Senapati Hotel Eden #205 400
走行 128km

4月21日

7時に起床 21℃。今朝もげりPがひどい。

宿のスタッフである16歳の女の子が荷物を運ぶのをわざわざ手伝ってくれて、かわいかった。

というのも、以前の職場にいた同僚の女子は、20代後半だけどあどけない面影がこの子によく似ていたので、非常に切ない。

なのでその日はずっと同僚を思い出してしまったほど。そんなエデンホテルを後にする

セナパティからコヒマは、険しい山道が続く。しかも体調が悪いので、そのため全然進めない。
走っては休んでチャイしばいてまた進んで休んでの連続で、1時間に10㎞と、ママチャリレベルである

15時過ぎ、とおるさんから電話がかかってきて、コヒマで待っているとのこと。そこからは一気にペースを上げる。

28Kmの距離を1時間20分ぐらいで進めた。山道なのでとにかく時間がかかりすぎる

とおるさん一家は、食堂にいた。

昨夜コヒマについた一家は、いいホテルに泊まらされたものの、かれらにとってとても予算オーバーのため ゴタゴタがあったという

今夜は別の宿に移るといい、我々が移った先は、キャピタルホテルという最安レベルの宿。

そこはベランダからの眺めはいいものの、いざ泊まってみるとひどい宿だった。

部屋の両側の壁がモロに空いている。廊下の騒音や外の犬の鳴き声などの騒音や、冷気や蚊まで入ってくる。

コヒマは高原地帯で夏場でも気温は上がらず、真冬は気温が氷点下まで下がるのに、設計が間違ってるとしか言いようがない。

自分一人だったら絶対泊まらない。壁が空いているという時点でアウトだし。共同トイレは汚く、電球もないので夜は真っ暗。そのひどさはまるでアフリカレベルだった

元気な時はまだいいが、ゲリがつづき、体調が悪いのでしんどいのだ。

プノンペンにもキャピトルホテルがあったが、あの時も南京虫にやられたっけな。

精神鍛錬だと思う

夜は、道端でおばちゃんがモモを売っていたが、それはなんと餃子と同じ形だった。そういえば日本には「桃ちゃん餃子」というのがあるけど、そこに由来があるのではと思う。味までも餃子の味に似ていた。室温19℃

朝 コーヒー ラスク ジュースなど
昼 ジュースなど
夜 ぎょうざ6個 50 Waiwaiチキンラーメン10 ナチョス65
宿 Kohima Capital Hotel #22 (500)
走行 94km

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4月22日

6時に目覚める 朝の室温19℃

昨夜には回復したかと思いきや、あいかわらずゲリがひどい。起きてるほうがコントロールできるが、寝てしまうと終わり。

きのうの餃子でまた当たったんだろうか。きのうは餃子を持ち帰りにして、チキンラーメンと一緒に入れたその食器を洗ったら、餃子の脂がぎっとりついてたし。

のどがつっかえたような、気持の悪さを感じる。
そしてあいかわらず、いつでてもいいぐらいにしりがうごめいている
もういやになる すぐに水を飲むことすらできない

朝食はとおるさんらとともに、地元料理である店へ。Galhoという料理。味はお茶漬け風のおかゆと言う感じで、わりといけた。

ほかに宿はないかと探してみる。オーロラは900のツインしかなかったが、値段の割に泊まるほどの価値はないので、前回泊まったセントラルへ。バスルームなしは700だが、中途半端なので例のドミにする。こうなったらいっそのこと我に苦難を与えたほうがいい(?)

朝は宿のすぐ近くの薬局に行き、ゲリ薬を買った。

10錠入りで10ルピーと言う安さで、1日何錠飲めばいいかも書いてなく、半信半疑だったが、まずすぐに1錠飲んで、昼食後に1錠のんだところ、薬が早速効いてきたのか、ピタッと収まった。

その後は水状のゲリから、ゆるゆる系に変わってきた。これで自爆する危険性も低くなったぞ。

ただ、腸からはっきり聞こえるぐらいのボコボコ音がするようになった。この安いゲリ薬だからこそ、インドの庶民を救ってきたのだろう

昼間になると多少は元気が戻ってきた。

これでとおるさん一家とは最後のわかれ。彼らの乗るバスをを見送った後は、昼食にする。

街の中心部に、チベットレストランがあり、その名もタシデレ。新宿のチベットレストラン・タシデレと同じだ!

【うまい】チベット式うどん・トゥクパ ”インドと新宿で食べ比べ”
チベットのうどん・トゥクパ。日本のトゥクパとインドのチベット亡命政府のあるダラムサラで食べたトゥクパはどう違うのか?比べてみました。チベット亡命政府・ダラムサラな店内日曜日に行われた三井昌志さんの帰国報告会。その日の懇親会は、近くのチベット...

ということで、店に入り、新宿と同じマトントゥクパをたのもうとしたが、それはないので、近似するポークトゥクパを注文。

豚肉は、脂肪やゼラチン質?が多く、肉の部分はそんなになかった
めんや野菜などは新宿とほぼ同じだけど、思ったほどの味ではなかった。新宿のほうが断然何倍もうまかった

夜、ドミトリーには白人男ひとりとインド人二人の、むさくるしい3人組がいた。

夜になるとでかい声でしゃべるそのざまはまさに「男祭り」で、自分には性が合わないどころか非常に不愉快なので速攻で、落ち着いた口調でかつ怒りを込めて「すいません、静かにしてもらえますか」と一言いったら潮が引いたように静かになって部屋を出て行った。

となりのベッドには真夏のサンタクロースのようなイタリア人のおっさんいたが、20時には寝たので、体調も機嫌も極めて悪い自分もとっとと寝たれということで、自分もサンタの後に続くように20時半には寝た。

夜の室温17.5℃

朝 Galho(おかゆ)30
昼 ポーク・スープチョウ(トゥクパ)110

宿 Kohima Central GH Dorm 300
走行 0km

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