ナミビア北部 ウィントフックから北の荒野へ進む

南アフリカ諸国・冬編
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2年ぶりのおまたせです!

長らく更新してなかった残りのアフリカシリーズを連載します。

2009年6月22日 Windhoek

南半球ナミビアは冬が進み、この日は冬至である。とはいえ日本ほど日照時間も少なく鳴らず、冬は感じにくいが。

前回の記事より、

ナミビア首都ウィントフックの街と日々
何百キロもの荒野の中からくると、大都会。そんな首都ウィントフックまで8㎞ほど来ると、ついにオアシスのようなウィントフックの街並みが見えてきたこの旅最後の首都、ウィントフックの街中へ。防犯カメラの前ではスマイルですって?よし、今度から防犯カメ...

首都ウィントフックで、両替など諸々の準備をして、タイヤ交換をした後は、

ついに北へ行ける。

11時、首都ウィントフークを後にして、荒野をひた走る

14時半、いつものハイウェイ沿いの木下のパーキングで休憩、昼食。183km走行。

クリームブロッコリーとメープルシロップのサンドイッチ

参考までに、これがアフリカを走行中の動画です。画質は悪いですがこんな雰囲気です

ナミビアではなく南アですが、同じような荒野なので同じようなもんです

冬なので日がくれるのも速く、夜になるとめちゃくちゃ寒いし、

真っ暗で危険なので村はずれの空き地にさっさと寒さに震えながらテントを張る

19時の気温12度ぐらい。20:30には寝てしまった。

夜はブロッコリーサンドイッチの残りとみかん。

走行429㎞

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6月23日

6時半起床。早寝早起きの野宿。とにかく寒い。寒さのため何度も目がさめた。

朝の気温テントの中3.2℃ 外1.8℃。ここはウィントフークよりも緯度も標高も低い(1100m)のに関わらず。サイドバッグと草むらには、うっすらと霜。

ここは南回帰線を越えており、緯度的には日本最南端の波照間島よりも南国なのに、

12月23日の埼玉と朝の気温が変らないではないか。

朝は極寒。そんなとき、あったかさと光をもたらす、朝の太陽のありがたみを心底かんじる。

朝食は昨夜の残りと、みかん3ヶ、コーンスナック菓子

思った以上の冷え込みで、寒いとなかなか動けず、結局9時出発。

10時25分ごろ、カマンジャブの町に着いた。

ヒンバ族の姿は見られない。ヘレロ族の古風なドレス衣装を着た人たちはいる。
スーパーもある。飲むヨーグルトのグァバ味500ml N$8.95などを買う

スーパーの前では、バケツ一ぱいで露店?をひらく黒人のおばちゃんたちがいる。

輪島朝市のような雰囲気だろうか。

バケツの中に入ったもっちりとしたパンを3つ買った。1こN$1(10円)。うまい

今もあばらもちょっと痛いし、右ひざがうまく上がりません。ジャケットや防風用に着ていた合羽もガムテだらけでボロボロ。

 

17時25分、ついに念願のオプウォの町に着いた!出発から355㎞。

 

実はオプウォの30km手前でパンクしたのだが、そのまま走りきる事が出来た。

来てビックリ。ヒンバ族が本当に町を歩いている!

原始からのスタイルのヒンバ族、古風な衣装を着たヘレロ族、普通の格好をした人、白人、雑貨屋の所有者らしき中国人もひとり見かけた。

別のゲストハウスで働く青年は、アンゴラから難民として逃れてきた。つまりいろんな民族が歩いているコスモポリタンなのだ

泊まったところは、ABBAというN$130(1560円)の宿でビジネスホテル並みの機能なのではっきりいって予算オーバーだが高いのだが、ここまで来れた自分に対するごほうびだ。LANケーブルでネットも出来る。ここでしばらく滞在する。

夕食はソーセージ4.5N$

23:30寝る。室温20℃あるが、ちょい肌寒い。

走行372㎞

当時のつぶやき

2009年5月のジンバブエ以降、帰国も迫り、毎日が多忙すぎる為、ネットをする余裕すらなかったのですが、
この宿は無料でラップトップ接続できるのでひさしぶりにネットしまくってます。
でも一旦ネットをやりだすと麻薬のようにはまってしまい、旅の貴重な時間がむだになってしまうんだよね

ちょっとまえに、孤独でつらい旅につかれたあまり、ものすごーく、死ぬほど憂うつになっておちこんでいたんだ。

そのときふとネットをみたら、バナー広告が出てきた。
「日本はいい国ですね。海もあって女性もきれいで・・」とかかれていたのを見て

「ああこんな国いやだー!日本に帰りてえー!」と本気でおもったのさ。

日本の女子は肌がきれいだし、他の国から見ればおしとやかだし、日本語も通じるし
日本の女が世界一モテル理由と言うのが判る。
白人の男も黒人の少年も日本女性と結婚したがっていましたし

でも自分はまだ31歳なのでケコーンするには若すぎるかな。

それまでは、まさしく高倉健のように無口で孤独な日々でした
でもここでひさしぶりにネットにふれて、日本で心配してくれる人がいてうれしくなった。2020/12/2 2020/12/3