2005年のブログ記事まとめ(20年前のたびいちはこんな事書いていた)

STK 1(復刻版)旧記事(アーカイブ)
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2005年からついに20年経ちました!

若き日のたびいちは時事問題や政治など、若気の至りではずかぴいこと書いてました

当時の流行をお楽しみください

今はなき画像無しのブログ「さるさる日記」に書いた日記を旧サイト・STK1に移植。

そしてさらに2023年にたびいちドットコムにまた移植、復刻。

そして今回2005年というくくりで、またまた移植!!

2005年に書いた過去のブログ記事を、この1か所にまとめました

【復刻】なつかしブログ 2005 5月編 たびいち27歳のエッセイ

温故知新!18年前のたびいちはこんなこと書いてました

こんな若気の至りではずかぴいこと書いてました

今はなき画像無しのブログ「さるさる日記」をSTK1に移植、

そしてさらにたびいちドットコムに移植しました

当時の流行をお楽しみください

■2005/05/17 (火) 性行為と生命力

面白い記事があった。それは日本のセックスレスの記事である。「日本経済には性交渉が必要」

昨年発表されたインターネットによる国際比較調査(41カ国・35万人対象)で、年間の平均回数は103回。国別ではフランスの137回が最も多く、日本は46回で最下位だった。

今回の旅をしてラオスやカンボジアではコンドームの看板がいたるところに目がついた。
プノンペンでは路上でゴムだけを売るのゴム売りなんてのが何人もいた。村を通ればガキンチョもウジャウジャいた。それだけ子作りがさかんなのである。

かといって東南アジア人は絶倫か?といえばそんなんじゃない。確かに娯楽も少なく多産多死と言う状況もあるけど、ようはいかにその人々の生命力が強い、と言う現われだろう。
本来、人間に備わっているはずの性欲。これによって次の子孫を繁栄してきた。

何も不自由ない豊かな生活になった日本では娯楽なども多様化して、セックスにこだわる必要もなくなってきた。たとえば70年代の深夜ラジオ番組なんかはもうエロエロネタで埋まっていたようで、それだけ一昔前の若者はそれなりに性欲があったということである。
しかし倦怠期でもないのにセックスしないなんて、これはある意味人間の本能の力が不足している現われではないだろうか。セックスレス化は人間の生きる力そのものが低下している表れの1つなのかもしれない。

■2005/05/18 (水) MXテレビはアジアだ!

東京のローカル局、MXテレビは東京に住んでいてもUHFアンテナを使わないと見れないのだが、自分の住む埼玉県の北のほうでもアンテナブースターを使っているのでMXテレビを見ることができる。(当然テレビ埼玉も)
東京の人間ではないのに視聴するのはある意味電波傍受行為か(笑)

月曜日は6時30分からど根性ガエルをやっていたのですかさず見た。実は、タイでもど根性ガエルが放送されていたのだった。
それはCartoonを流すタイのチャンネルで、英語圏でも放送するのかGatsyFrogとタイトルが英語に変わっていたが、内容はタイ語の吹き替えだ。
テーマソングが曲だけしか流れていなかった。

しかしここではちゃんと♪ぴょこんぺたんぴったんこ♪と当然歌もついており
それを聞くと妙にタイがフラッシュバックする

MXテレビでは韓国や台湾のドラマやアニメを流したりするが、考えて見ればどれも東南アジアで見ることのできる番組ばかり。泊まっていた宿のTV次第では現地の国やタイ系、中国系や台湾系、欧米系などなど何十チャンネルも見れる
たとえば最近日本でも人気が出始めた台湾のグループ、F4は、東南アジアではかなり前から人気があった。流星花園(花より男子)というドラマもアジアでも人気だが、日本ではせいぜいMXテレビが流す程度だった。
まあ、MXがアジアン番組を流すというのもローカル局という個性を出しているのと放映費が安いというのもあるのだろう。放映費の高い(そのわりには質があるかどうかは疑問だが)日本のドラマはせいぜい台湾系のチャンネルが流すぐらいで東南アジア全体では人気になったためしがない。日本のマンガとはずいぶん違う。

こうしてみると、MXテレビを見ればリアルタイムでアジアを味わえる、といった感じだろうか。1950年代の日本のTV局はアメリカの番組ばかり写していた。

しかし現在の他の大手民放局は日本のものしか流さない封建的な局ということにもなる。

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■2005/05/21 (土) 海外ツーリングの爆発的情報量

2000年12月31日夜7時。大晦日の夜の南米ボリビア・ラパス。
そこのインターネットカフェと言うところで、自分の今までの常識を覆す物に出会った。
ブラウン管を見ると、そこには「渋谷の正月カウントダウンで3人負傷」の文字が。

日本の雑誌や本が届くまで何ヶ月もかかるようなこの南米。しかもここでは大晦日の夜なのになぜ日本の正月の事が載っているのか。このパソコンは預言者なのか?

あの時の未来を予言したような驚きは一生忘れない。こうして20世紀、いや千年紀の最後の夜、日本では2千年紀、21世紀最初の日に、「インターネット」の洗礼を受けたのである・・・

・・・・そして今日2005年5月21日、先週の集まりで出会ったバシシさんや海外ツーリングライダー諸氏のホームページの旅日記を延々と読んでいてふと気が付いた。

私がオートバイで世界一周する前の1999年以前は家にはパソコンなんてなかったし、ネットがあったとしても当時のダイヤルアップの通信料の高さでおちおち見れなかったろう。

ネットも金もなかったそんな時、どうやって情報を集めたかというと、専ら図書館へ行って本を借りて読むぐらいしかできなかった。一冊の読みたい本のために自転車で単車で何件も図書館をあたったこともある。本だけが頼りだったのであとは手探りで自力で行っていた。あの時は情報集めに苦労していたが、それと同時に1冊の本で未知なる世界の旅に期待が爆発、読んでるだけで凄く楽しかったのを今でも覚えている。
世界一周にでてからも、日本語のない日々なので旅先での貴重な情報ノートを飢えた狼の気持ちのようにむさぼるように読んでいた。

しかし現在。ネットのブロードバンドかによって家から一歩も出ることなく、旅の情報、所持品の持ち方、旅のせんぱいの書いた日記をいくらでも読むことができる。しかも実感があるので大まかにわかってしまう。旅先のネットカフェにて、BBSやメールを使ってどこどこの日本人宿で集まって〇〇日はパーティだ!ということすらできるようになった。
前回の自分のアジアの旅だって、辺境の田舎の町にいてもネットカフェにいれば大量の最新の情報がドドドっと読めるので日本にいるのと変わらないぐらいだった。その隣に坊さんが座っていたから不思議な気分になるが(爆)
非常に便利でありがたいものだが、贅沢な悩みとして、「適度な情報への飢え」と未知なる旅先への感動も去勢される事にもなる。

この「デジタル化」を境に海外を目指すライダーも急激に伸びたと思われる。
20世紀は世界一周というと、情報が限られてある意味ハングリー精神な人ぐらいしかできなかった

【復刻】なつかしブログ 2005 6月編 エレキと無観客試合

 

■2005/05/25 (水) 六本木のエレキライブ

ちょっとまえの5月4日、FM局とバンドのキーボード演奏で活躍するの♪さん(FM西東京の出演でお世話になったパーソナリティの女性)のバンドが出る、テケテケライブを見に六本木へ行ってきました ちょうど自分もベンチャーズのCDなど持っているのでまさに本物が聞けて、いや~本当に楽しかった!

来る前はコピーバンドだけなのかな、と思って行ってみると、なんと元ベンチャーズのノーキ・エドワード氏が出演するとの事。
エレキと聞くと寺内タケシのエレキ魂、反骨精神、といったイメージもあるが、当然ステージも観客もオヤジパワー全開。

♪さんは前座のバンド「メモリーランチャーズ」で紅一点隅の方でキーボードを演奏していたが、やはりパワーあふれる男の世界。ドラムとエレキの音にかき消されてしまう。
なんともバンドリーダーは加山雄三や寺内タケシのバンドにいた事のある人だからすごい。

このバンドで特徴なのはベンチャーズのみならず、山形花笠音頭などの民謡をアレンジして迫力あるエレキサウンドに変えていく。だからアメリカ人がジャパニーズ民謡を演奏しているような、なんともオリエンタルな不思議なフィーリングだ。

その後司会者も変わり、いかにもこの道司会者一筋30年、といった熟練そうな司会者になった。そして真打ともいえるノーキの出番。

圧倒される狂いのないリズムと繊細さと、狂ったような迫力を兼ね揃えていた。そしてドラムの完璧なリズムとダイナミックさ。おいらはドラマー嵐を呼ぶぜ~とはこのこともいえるぐらいに最後まで夢中になって聞いてしまった。
やっぱり本物の会場で演奏する本物は違うな~と、いなか者の私はしみじみしたね。
さて、ノーキはてっきり50代だと思っていたのだが、司会者によるとなんと彼は70歳だった!
森光子とノーキはエイジレス、とはこのことを言うのね。
興味がある方は検索して調べてみてください

そういえば、その大御所司会者は、一体どんな風にノーキと話すんだろう、と思っていたら、特に会話はなかった。ノーキも過去に何十回も来日している割には日本語全然しゃべれないのだが、インタビューがなくても音楽に国境はない。エレキに言葉は要らない。と感じ取れた。
ベンチャーズの曲は歌のないインストゥルメンタルなものばかりなので、クラシックと同じ、曲だけなら言葉も国も関係なく共有できる。その時司会者はなぜかファイヴ・ナイン、と言っていた、次のライブは5月9日、と言う意味のようだ

さて、前述の「メモリーランチャーズ」には、特別出演に7歳の女の子がステージに出ていた。エレキの弾ける天才少女!将来はエレキのモーニング娘。!とリーダーが意気込んでいた。ウェスタンな格好をしていて、ふっくらとしてかわいいのだが、いかにも疲れてだるそうな顔をしていた。子供は正直だ。
まさに客寄せ着ぐるみチックなレッサーパンダのようなものだろう

そのバンドが終り、しばらくするとその女の子が会場の一番後ろにたってエレキライブを聞いていたのだが、その「正直」な女の子は、なんとエレキのノリノリなリズムに合わせて一人で踊りまくっていた(笑)

その日本人離れした感覚には思わず感動してしまった。というのも中南米(アフリカやアジア、インド、沖縄あたりもそうだろうが)の場合、よく街角や祭り広場なんかで大音量でポップソングやダンスミュージックがかかっていたりするのだが、子供はもちろん、若者も大人も場所ふりかまわずスピーカーの音にあわせて腰を振って踊っていたりする。
彼らは曲によっていつでも反射的、本能的に体が動いてしまうのだ

転じて日本の場合、たとえば日本でイベントや祭りのとき、ダンスミュージックが流れていたとしてもそれにあわせて身体を小躍りさせたり、踊ってる日本人はまずいない。
そんなところに子供が踊っていたりすると親から「みっともないからおよしなさい」とか、友人から、からかわれたりしてしまう。
そういう日本的な壁をもろともせず、自分の本能に忠実に踊っていた彼女はある意味、めぐまれた環境に育っているともいえる。

■2005/06/09 (木) サッカー、日本タイ北朝鮮

サッカーの試合なんぞろくすっぽ見ないのに、あのときはなんたって「北朝鮮」との、しかも「無観客」試合というのが興味があったのでテレビにかじりついてしまった。
タイ・バンコクで試合なので、一ヶ月半ぶりに見るバンコクはなんかなつかしい。ただ高温と雨季に入って湿気が高くなり、ものすごく大変そうだ
試合前半。0-0で終った。なかなか点が入らないが試合の展開からすれば日本が有利なのはわかった
そして後半、2点を入れる。だが日本の勝利で幕を閉じる終了間際に、北朝鮮の選手がヤケクソなのかキレテしまい、レッドカードになった。感情のコントロールできない北朝鮮の本性をまたも見せつけられる。だが、サンフィレッチェ広島に所属する金一点、金髪に染めた選手が必死で彼を止めに入っていた。彼も北の選手とは言えど、日本のチームに所属して日本ナイズされた考えをもっているので止めに入ったのが唯一の救いだったかもしれない

当然何万人という観客がいないので、スタンドはガラガラ。試合中は日本のサポーターの声がスタジアム外からカセットテープのように流れてくるのだが、試合が終るとぱったり止んだので、なんかW杯というよりも草サッカーで勝ったような素朴な感じがしたのが印象的だった。

【復刻】なつかしブログ 2005 7月編 さるさるさるさるタイ縁日

 

■2005/07/02 (土) 刑務所誘致に見る地域の差

4月上旬、カンボジアのゲストハウスでは2週間ほど滞在したが、そこは一泊5ドルなのに衛星放送が見れた(法的規制が無いからきっとみんな勝手に電波を傍受しまくっているのだろう。)

NHKもやっていて、クローズアップ現代もやっていた。ゴロゴロしながら見てると、そのときは刑務所誘致の話だった。

過疎化の進む僻地にとって、刑務所を誘致する事は経済効果につながる。各自治体では誘致合戦を広げていたが、

鹿児島県枕崎の場合だと、ここは日本でも有数の封建的な土地柄であるが、その誘致する様は、集会所ではみんな鉢巻をして誘致するぞー!と気勢を上げていた。まるで朝鮮民族のようにすさまじい執念を感じた。
「犯罪者よ、来い!根性を叩き直してやる!!!」といわんばかりであった

一方、同じ最果てでも北海道の稚内。緊迫感の全然無い市役所内が映し出されたが、提案している刑務所は「環境にもやさしい」なんて謳い文句。さすがの私も、なんか違うんじゃない?なんて思ったが、さらにびっくりしたのが名前を聞いたときだった。

その名が
「てっぺん刑務所」

・・・・・まあ、果てしなく広がる大地でおおらかなのはわかるが、そんなおばかな名前じゃあ、囚人もおもわず脱獄してサハリンまで泳ぎきってしまうぐらいヘナヘナとした感じの名前だ。

今だに明治や大正的な封建的な枕崎と、寝そべる酪農牛のようにお~らかな稚内。どれも日本の果てと言えど、あまりにも違う気質の違いが異国カンボジアで手に取るようにわかった。

■2005/07/28 (木) 縁日

台風一過の猛暑。The Typhoon is gone.
気温では37度ぐらいとはいっても、湿度が低く空っ風が吹きまくるので体感気温はかなり低い。家の中にいてもそんなに暑くないのだ。
先日まで台風や前線の影響でジメジメべとべと湿っぽく蒸し暑かったのに、昨日はすっきり青空カラカラの正反対の天気だった。そのギャップがなんか面白い。

こないだ、地元のうちわ祭りをちょいと見物してきました。う~んひさしぶりのニッポンの夏。
いっぱい屋台があるのはいいけど、たとえばちっこいスイカ一切れ200円・・・高くて何も買えん!

縁日の屋台と言えば、タイでも各地でお祭りをやってるのですが、タイでも日本と全く同じ縁日があってとても感動した。
(スーパーボールやヨーヨー、熱帯魚救い、おばけやしき、射的、輪投げ、アイドルのポスター屋(といってもタイのアイドルだけど)、焼きそばや焼き鳥屋台・・・しかも5、10、20バーツ(15~60えん)だから飲み食いしまくりでいろいろ遊べます。日本の祭りで同じ事やったら何千円と吹っ飛ぶ事でしょう。日本の縁日フラストレーションを発散させたのは言うまでもありません
おかげでタイにズルズルいてしまったわけですが・・・

日本の祭りや縁日と違うのは、鼓膜が破れるぐらいスピーカーから音楽が流れまくってる事と、焼き鳥屋台の隣にはタイ名物・虫屋台。から揚げした虫にナンプラーをかけて食べる。ゴキブリみたいにでかい虫はさすがにグロ丸出しで食えなかったが、ちっこいイナゴやさなぎなら小海老と同じ味わいだ。

そしてタイ陸軍による射的コーナーというのがあるんだが、なんとライフルの実弾(5発30バーツ)しかも素敵な事にウイスキーで酔っ払った軍人が近くにいるから、ある意味命がけの射撃ゲームですぞ。

とどめに先進国の感覚からすれば幼児虐待ともいえる見世物小屋があったことだ。
いくらハイテクIT化が進むタイとは言え、檻の中で大蛇とボロボロのポケモンの服を着た幼児が戯れ続ける見世物小屋は江戸時代と変わらないのであった。

(さらにタイ最奥の町、メーホーソンではもっとすごい見世物小屋があったのだが、あまりに常識から逸脱して人権的に問題があるのでここでは書けません)

追記

当時ここでは書けないと書いてあったが、それは動く生首。とはいっても後で調べてみたら、それはマジックミラーの一つではないか?ということで問題なさそうなので、書きました。

【復刻】なつかしブログ 2005 真夏の旅人・静岡の旅

 

静岡へのツーリング2005 ~あれから10年、そして18年 旅仲間と再会!

若き日の旅をお楽しみください

 

静岡出張

7月29日の金曜日、朝5時40分、埼玉県北部の自宅を出発。
今夜は、ナイトフィーバーin静岡
ちょうど10年前の1995年の夏、高校時代、GN125でやはり静岡まで行った事がある。(実は小学生の頃2年弱ほど静岡県清水に住んでいたことがあった) 若き10年前を思い出しながら今や老体のGN125を道中走らせたのだった。
いつもなら八王子までは道が狭くて車が多くどっと混む酷い道なのだが、朝早いので快適に八王子まで来れた。

自分の場合、八王子あたりから沼津・静岡以西方面に行く場合はいつもこの道順を通る。交通量や信号の少ない県道とかマイナーな道をうまくつなげれば快く走れるおすすめルートだ。
「R413道志みち>山中湖>三国・明神峠>富士スピードウェイ経由の裏道>R246>R1」

道志みちはさわやかな朝の青空がひろがり、山の緑と色彩コンストラスト。そして首都圏の混雑路とは違って空気がきれいでたまらなくハッピーになる。125ccなのでゆっくり自分のペースで走って山の新鮮な空気を存分に味わった。

峠を越えて山中湖へ下ると富士山がデカデカと見える。山中湖につくと、テニス村があって今の時期は夏合宿の生徒や学生でいっぱいだ。テニスの王子様&王女様がうじゃうじゃ。

湖から離れた森の中でシートを広げて休憩&仮眠。眠れる森の美女のように寝ようと思ったがちょっと虫が多かったし気分が高まってるので眠れなかったが、標高1000mなので空気も涼しくからっとしている。誰も来ない森の中なのでじっくり癒された。

山中湖から静岡県へ。一気に気温が高くなり暑くなるが、走りやすくなる。特に清水までのR1は高速道路のようなものなのでガンガン飛ばせる。ここはいつ走ってもいい!

静岡市清水区(旧清水市)には午後2時についた。寄り道しなければ自宅から約220kmの距離。ドヨーンとした風が吹く。海に近いので空気がとても湿っぽいのだ。埼玉や山中湖の高原地帯にはないこの独特の空気!海に近いところでは建物が潮風で錆びている。旅情を感じる。

昔、小学生の頃住んでいた団地。

まだ早いので記念に三保の海水浴場でシュノーケル持って一泳ぎ。高原で癒されて海で泳ぐ。なんとも充実している。これぞ夏マックス!

10年前泳いだ時は海栗のトゲに刺さって痛い思いをしたのでフィンの代わりにサンダル履きで泳いだ。工業地帯が近いので海は汚い。近くを伊豆行きのフェリーや静岡県警の巡視艇(海が無い埼玉には無い)が通る。

一泳ぎして公園の蛇口で体を洗う。ここまでの汗を流すことができてなんともさっぱりした。

その日の夜、興津川河口の浜でBBQをした。オーストラリア時代の友人たちとの再会。
20年ぶりの清水で1年ぶりの友人。もう複合的な懐かしさ大爆発。
もう呑みに飲みまくって、しかも再会の興奮と相まってもう完全に頭のネジがぶっこわれたよ。

 

7月30日、土曜日。

宴の後の野宿の朝

焼津に寄ってみる。遠洋漁業の街

清水からの帰りは睡魔との死闘にあえいだ。午後8時に山中湖につくとお祭りムードなテニスの王子女様であふれかえる。湖から花火が上がる。その度に女子中高生たちが意味のわからぬ歓声を上げていた。ソフトクリーム屋はめちゃくちゃな混みようだった。スイカ売りの屋台のような売り場にテニスのガット張替え屋なんてのもあった。

その後走ってるとモーレツに眠くなり、視界が揺れるぐらいのあまりの眠さに速攻で道路わきでごろ寝。5秒で意識が遠のいた。
そんなことを4回繰り返したが、なんとか6時間かけて、われ帰還せり。

■2005/08/10 (水) コリ参上 ~謎のツールドアジア~

先日8月7日の夕方4時に、夏は猛烈に暑い日本のサバンナ地帯・埼玉県北部の某所にある秘境に、知る人ぞ知る伝説の旅人・コリが到着した
ポイやファイヤースタッフなどのファイヤー芸を伝授してくれたのもコリだった

コリとの伝説は、およそ2年前にさかのぼる。
2003年の10月の始め、シドニーにある東京ビレッジという安宿にいたときコリから声をかけられたのが始まりだった

以後、オーストラリアのほぼ一年、広大なオーストラリアの各地で遭遇していた (詳しくは南の大陸・Round編を参照)

そして2004年9月、私もコリもオーストラリアを去ると私は一旦日本に戻り、コリはインドやネパールの旅を始めた。
その後12月にタイで自転車を買い、なんと日本の家まで陸路で帰ると言い始めたのだ
私も2004年末からインドシナにいたが、一足違いで会う事はできなかった

そして先月の7月29日、静岡市清水区でひさしぶりの生コリをゲットした。オースの時と違いモヒカン三つ編みではなかったがそれ以外の風貌は全く変わっていなかった。
その日の夜は2人でホテル・シーサイドに泊まった。
といってもそのシーサイドホテルは宿泊費無料の五つ星どころか七つ星の最高のホテルである!

なんともコリは静岡市の手前で事故したのだが、事故のことよりも相手の車の同乗者の若い女の子の方が気になったというから、いかにもコリらしい話だ

そして先日8月7日、コリがついに家にやってきた。
コリは2004年12月にタイ・バンコクをスタ-トしてからは地雷原のカンボジアを進み、激動のベトナムを越え、人民の波を書き分けながら中国を走り、香港、台湾、沖縄、石垣、屋久島、そして九州上陸し各地の友人の家を訪問しながら中四国、近畿、東海、東京、そしてここ埼玉と、アジアも日本も横断してきたタフガイなのだ。

実は私もコリのように日本から東南アジア、そしてタイからマレー半島南下してシンガポールまで(できればインドネシア、オーストラリアまで)自転車で走ってみようかと一時期考えていた。
結局実現はしなかったが、コリがそれをやってくれたのだ。
そのタイからここまで走ってきた、9000km分の苦楽を共にしてきたMTBが家まで来たわけだから旅人の私はもうめちゃくちゃ感極まったね。

その後、労をねぎらうためコリを五つ星どころか七つ星のリバーサイドホテルにご招待した。

五つ星を越す七つ星ホテルなので、黒塗りのロング・リムジンにお姉ちゃんとドン・ペリニオンつき護送したかったが
MTBのコリと一緒に走るため、私はリムジンならぬママチャリでリバーサイドに向かい、しかもドンペリよりも最高な一本109円で買った、のどごし生「その他雑酒!」
雑な人間は雑酒が似あうわい(大笑)

♪ホテルはリバーサイド!食事もリバーサイド♪
コリは早くも理想のブッシュキャンプ、というより野宿ポイントを見つけていた
自分はラスト野宿からだいぶ月日がたったのでベストポイントを探す嗅覚が衰えているが、連日野宿しまくっている現役のコリはその手のサーチング能力が非常にするどい。さすがじゃのう~
近くには水道もあるのでこれで青空バスルームも完備!と思いきや、途中で水が止まってしまった。残念!

前回のシーサイドと違って、虫にかぶれまくったが、夜もふけて風が吹くと少し肌寒いぐらいだった。コリと2人だけだったが、虫に襲われながらもスーパーで買った半額に下がった惣菜や雑酒を食らいまたも頭のネジぶっ壊れ状態。いくらアホアホ丸だし奇声嬌声をあげようがシャウトしようが川原のど真ん中なので誰も聞こえやしない。

翌朝、またママチャリで迎えに行く。前回のシーサイドと違って気温差が激しく、夜の涼しさと違って朝早くからえらい暑くなる。

途中までコリと荒川の土手を一緒に走る。思えば私の乗り物はオーストラリアではBMW風の650ccビッグバイク、清水に行った時はGN125, そして今はママチャリと、だいぶ進化したものだ(笑)

コリのゴール・新潟県長岡はあとわずか。

【復刻】なつかしブログ 2005 9月編 政治と選挙と金的直撃

最近のたびいちドットコムにはないの政治の話を忖度抜きで書いてあって、ある意味珍しいですぞ。

当時の流行をお楽しみください

■2005/09/11 (日) 投票と金的一撃必殺

投票に行ってきました。
午後から雨が降ってきたのにかかわらずぞくぞくとやってくる。(と言うかみんな車でやってくるからなあ。ああ車社会)関心の高さがうかがえまする。

遊星民営化の外にも理不尽と無駄が多いこの世の中。
**党はなんだかんだいって旧態依然だし、遊星ばかりに気をとられている。
長いものには巻かれたくないので@@党の候補者に入れ、比例代表も@@党。
さあどうなる埼玉12区。

3——— — — — -★

頭が選挙モードのまま帰りにコンビニでフライデーを立ち読みすると、〇〇エモンの写真があった。が、彼が車から降りて演説を始めるやいなや、天下の〇〇エモンにカンチョーしたり「男性自身」を触る悪ガキの写真が写っていた。

これはもう「国内有数の企業の社長でもあり、そして衆議院に立候補する人間」の威厳があっけなく崩れる写真だった。そう思うと思わず店の中で必死で笑いをこらえちまったですよ。

だけど見事に股間にめり込む少年の手はまるでプロの女を連想させるほどのお見事ぶりだったなあ。

この悪ガキどもは絶対大物になれるだろう。大金持ちの「金」をつかんだのだから!

 

■2005/09/13 (火) 選挙 アフロあきらの考えをまとめてみました

自民党の圧勝。ですが、にしむたさんのブログ
http://www.doblog.com/weblog/myblog/5973/1839096#1839096

によると、「小泉さんはキャッチセールスの類と話し方がよく似ている。」とのこと。

「遊星民営化!遊星民営化!」
「改革を止めるな、改革を止めるな・・・・」

これは意味、オームの
「修行するぞ、修行するぞ・・・・」と紙一重かも(それは極端か。笑)

そしてマドンナに落下傘・・・巧妙な手口での野党「つぶし」。

今回の結果を見て、有権者、すなわち国民はちゃんと候補者や政党、政策を吟味して投票したのかと問いたくなりますね。選挙の名のもとでキャッチセールス的ムードに流されてる気がしました

自分的に的を得ていると思ったのは、亀井しずかちゃんと反小泉で、イラク在留は無駄な出費だとシャウトしまくる田中真紀子と言ったところか。テレビで見ている分にはね。

民主は首相が繰り出す「技」の前には歯が立たなかった。民主はせっかくの政策があったのに有権者に訴えるには堅かったのかも。
岡田代表はもうちょっと表情を柔らかくすればよかったのに。

新党日本の党首でもあり長野県知事は、県知事の支持率が急低下。県の債務(借金)を減らしたりする実績と、県政に対するせっかくの努力と素質があるのに関わらず支持率低下には、やはり行き過ぎたパフォーマンスが自ら墓穴を掘っていく結果になったのか。そう思うとえらい勿体無い気がする。

やっしーのクレイジーな破天荒さはある意味貴重なキャラなのだが、最初のうちの「知事室でタレントをだっこしてワイン」ぐらいでやめといたほうが良かったのだろう(苦笑)

ともあれ政権が自民になっても民主になっても、社会保障などの減退は避けられないでしょう。理由は

〇高齢化社会。
〇ハイテク化による効率化。
ある情報が知りたいな、と思っても、
昔は電話したりあれこれ駆けずり回ったりしましたが
いまやネットで検索、ボタン1つでぴ!ですからね。人員不要。
〇個人の生産能力性の低下。
価値観の変化でニート、無職であることに抵抗がない人が徐々に増えている(笑)
〇将来のエネルギー資源供給の不確実性、など。

圧勝した自民が引き続き政権を握ると言う事は、確かに安定はしていますが、国家財政が徐々に傾き、緩慢に赤字と借金が増えていく、と言う感じでしょうか。

■2005/09/26 (月) akino otozure

先週から夜は長袖を着るようになった
ずっと続くかと思われた暑さも終った。

【復刻】なつかしブログ 2005 10月編

長いニート放浪生活をえて2005年10月から社会復帰した時の話です

当時の流行をお楽しみください

■2005/10/04 (火) 19年ぶりの市民

今流行りのトレンド「市町村合併」のため、今月から自宅の住所がX町からZ市になった!

市になったところでじぇーんじぇん実感がわかないのだが、これから町民ではなく「市民」と名乗ることができるのである。

1986年まで市に住んでいたのだが、引越しで「町」に住むことに。
そして2年間東京都豊島区椎名町に住んでたときは市を通り越して正真正銘の「区民」だった。その後海外に行ったり日本に戻ったりで19年がたった。

19年ぶりの市民。これは果たしてすごいことなのか、それともただの田舎者だったのか(笑)

■2005/10/05 (水) じこ

人身事故。
といっても自分の事ではないのでご心配なく。

昨日の帰りの電車、西武線が人身事故のため途中の駅から出発できなくなったのだ

ビンボーな国を旅すると交通手段の遅滞は当然中の当たり前なので
「しょーがねえべ、待ってやっか」と言う気分で構えられるが・・・

しかしここは電車が定刻どおりに動く日本だし、その上に私は長距離通勤の帰りなので、いつ発射するか分からないからもう失望的になってくる。

それでも他の乗客は文句も言わず、暴れるものもいず、平然としていた。と言う事は人身事故なんて日常茶飯事だろうか??
20分頃してやっと出発した。何度も何度もお詫びのアナウンスが流れる。

後になって調べると西武池袋線なので直接的には関係ないのだが、24000人の中に自分がいたのだった(苦笑)
http://news.goo.ne.jp/news/yomiuri/shakai/20050808/20050808ic01-yol.html

ビンボー国でよくある
「ボロエンジンのピストンが焼きついたのでここでお待ちください」とか、
「荷台の小牛が逃げて探しに行ってるのでバスが遅れます」
というのと

「ストレスが溜まり過ぎてうつになって自殺した人がいた為電車が遅れます」

というのでは、なんとも質が違うものだ。うんー

■2005/10/12 (水) OH!Myコン部

現在、晴れてパソコンを使った仕事をしているが、結構自分のパソコン歴が長いことに気づく。
なにしろ最初のコンピューターが、誰も知らない日立のベーシックマスターレベル?Vだった。ベーションマスターじゃないゾ!

1982年のとき父がマイコンを買ってきた。(当時はパソコンではなくマイコンと呼ばれていた)

今のパソコンの最新技術はマルチDVDにデジタル放送着信、指紋認知システムといったところだが、
そのベーシックマスターの最新技術の宣伝文句だったのは

「マイコンで初のひらがな表示ができる!」

というもので、今のパソコンからすれば幼稚園児がひらがな覚えるのと同じ次元だった(笑)

そんな幼稚園児だった当時の自分は何がなんだかわからないけどひらがな書いて適当にキーボード連打して遊んでいた。このころからパソコン使いの道が始まったんじゃいっ

ROM24KB RAM32KB(MBではない)という化石的スペックで当時20万円(今の価値だと30万ぐらいか)で購入した高価なもの。当時はコンピューターなどのハイテクの物が流行っていたこともあって、そのマイコンは今のパソコンよりも存在感とありがたみがあったわさ。

32KBは、今ではデジカメ写真一枚分にもならないが、
当時のマイコン入門の本を読むと、64Kなら64000字分の容量なので、当時のさらに昔のコンピューター技術者から見れば目を丸くするほどの物なんだとさ。

だけど、ひらがな入力がやっとのマシンでは仕事にも生活にも役立つわけがなく、時がたつにつれ忘れ去られた存在に。
それじゃああまりに忍びないので、小中学生の頃自分でミニゲームのBASICプログラム入力にトライしたり。

今は奥で完全に眠っていますが、電源入れれば動くでしょう。

■2005/10/23 (日) Maruchanization

日本の即席ラーメン「マルちゃん」がメキシコで国家的規模の人気食品になり、メキシコの伝統料理が危機にひんしている-。こんな記事を二十一日付の米ロサンゼルス・タイムズ紙が一面で紹介した。メキシコでは「マルちゃん」という単語が「簡単にできる」「すぐできる」という意味で使われるという。
記事は「メキシコで昨年約十億食の即席ラーメンが売れた。一九九九年の約三倍で、うち『マルちゃん』は85%の市場占有率を誇る」と説明。人気の秘密を「メキシコの全労働者の約六割は平均日給が十三ドル(約千四百円)以下。しかし『マルちゃん』は約四十セント(約五十円)と手ごろで、簡単に作れ、冷凍の必要もない」と分析している。
一方、「『マルちゃん』は豆や米を使うメキシコの伝統料理に取って代わる勢いだ。われわれはメキシコの食文化を守らねばならない」(メキシコ文化芸術審議会のメンバー)という危機感に満ちた発言や肥満、糖尿病などを懸念する栄養士らの声も紹介している。
「マルちゃん」ブランドを展開する東洋水産(本社・東京)は米現地法人「マルチャン・インク」を一九七二年、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外に設立、北米、メキシコに出荷している。
同社は「先日もメキシコの新聞が、審議を早々と打ち切った議会を『議会がマルちゃんした』と記事にした。いまや動詞として使われるようだ」と話している。 【ロサンゼルス=岡田敏一】

(産経新聞) – 10月22日15時5分更新

メキシコや中米ではMaruchanとNissin(カップヌードルのことね)二大カップめんがどこにでも売っていた。中米のガソリンスタンドは日本風のコンビニも併設されており、中米でも人気のカップヌードル(100円位、米国製)も食べれる。

向こうのカップヌードルやマルチャンは、見かけは日本のと同じだが中身の味はちっとちがう。

日本では油揚げ麺てきな食感だが、向こうのは、ノンフライのパスタっぽい食感だった。割り箸ではなくプラスチックのフォークで食う(しかも折れやすい)だから「カップラーメン」というより「スープヌードル」と言った方が相応しい。

そういえばメキシコではタコスなんかの縁日の露店がいろいろあるんだけど、中にはマルチャンとお湯とフォークだけが置いてあると言う、どうしようもない屋台があったけな。

こちらも参照してみてください(中南米の食事)

超大盛飯店 新館 新大陸編(南中北米) 世界の食事と物価
超大盛飯店新館ちょー、ををもりはんてん しんかん新大陸編(南中北米)世界の食事と物価※エクアドルやパナマなど、米ドルを使用していたり、あるいは米ドルと相場が固定されている国々では、円ではなく米ドル($)で換算しております。ご了承下さい。 南...

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/2599/chooonew.htm

 

まあそれはさておき、
マルチャンがメキシコを圧巻する流行語までになっているのはビックラこいた。

いっそのこと日本でもメキシコと連動して
「今日のテスト、すぐ終わったろ?あの問題はマルちゃんだったよな。」とか、
「なにその化粧、あんたそれじゃあマルチャン丸出しでしょ」

なんて流行りだしたらウケるんだけどなー

【復刻】なつかしブログ 2005 11月編 社会人として生きてました

 

■2005/11/06 (日) またじこ !とゆうことで途中下車の旅・所沢編!?

またも帰りの電車で人身事故(10月5日以来)だよ。こっちは疲れて早く帰りたいのにもうやりきれないさ!
ただ、事故処理が終るまで所沢駅で停まったままなので、どうせ電車の中で長々と待っててもいやだし、これはチャンスとばかりに途中下車の旅をした。

西武グループの城下町ともいえそうな所沢の駅の構内はまるでニューヨークの地下鉄の駅のように年季が入っていた。(悪く言えば古い感じだけど)

西口を下りる。歩行者天国・プロペ通りがある。さすがパルコを作るだけのことはあって、結構粋な名前の通りだが、この歩行者天国は川越のクレアモール(新富町商店街)にそっくり。

所沢と川越はそれぞれ違った街の個性があるのだが、駅から伸びる歩行者天国に関しては、100円ショップやマツキヨ、おかしの安売りチェーン店などの店まで、川越にあるのと変わらないのだ。そのまま進むとダイエーにつきあたった次第。

まあ、人が犠牲になったおかげで、所沢の発見ができてしまったという、とっても有意義な途中下車の小さな旅でした(ブラックなオチだ)

■2005/11/12 (土) Dr.スランプ アラレもない悲惨な日

サラリーマン生活も板についてきた今日この頃。
前任者が退職したので今月から自分ひとりで担当の仕事をこなす事になって二週間目。
とたんに仕事や残業も多くなり、脳みそフル回転の連続だったので、
無意識の内にわしの頭にも狂いが生じてきたようだ。

昨日の夜も残業だった。電卓をたたくが数字が全然かみ合わない。ちゃんと計算したのにおかしい・・だがもう一度検算すると単なる自分の入力ミスだった。これこそが災難の前兆だった・・

仕事を終えて、ある駅でおりてふと気がつくとなんと自分の定期券がないではないか!荷物を探っても来た道を戻って調べても見つからない。
駅の案内所に行くと、「たったいま届きましたよ」といわれて無事定期券に再会。

財布を取り出した拍子に落としたのだ。その駅員さんや拾ってくれた方への感謝の気持ちと、本当に申し訳ない気分で非常に複雑な気持ちだった。
ホッと一安心と同時になさけなさでいっぱいになる中、第二の災難がやってきた。

ガードレールのような柵の近くを通ると、「ビリ」と言う音がした。嫌な予感だと思い見ると、なんと突起物に引っかかり、スーツのズボンに4センチぐらいの切り傷がついてしまったではないか!

これにはモロ凹んだ。この世の悲惨を一心に浴びた気分だった。

おかげで大スランプ、今日は絶不調だった。

■2005/12/06 (火) 「旅行の友」というふりかけ

ふりかけのパッケージを見ると「ごましお」「おかか」「旅行の友」なんてかいてある。

ふと気がついた。

ふりかけなのになんで「旅行の友」なんだろうか?
おそらく日の丸弁当ぐらいしかなかった時代の名残なのかもしれない

調べてみると、やはりふりかけというのは味と栄養を補う為のものだった。
http://www.tanaka-foods.co.jp/

http://2004dec.at.webry.info/200503/article_24.html
「B級グルメと旅行と日記」より

だから戦前から戦後の時代にかけては、はれて旅行した時に、おにぎりや日の丸弁当に「旅行の友」をかけることが贅沢だったのかも知れない。

パッケージのデザインも、50年以上も受け継いでいる。切符を何枚か合わせた人が出ているが、よくみると自動改札が主流となった今では、はさみが入った切符なので、なんともなつかしい。

飽食の時代の今では盲点ともいえる、当時の生活のつつましさが目に見える。

【復刻】なつかしブログ 2005 12月編

温故知新!18年前のたびいちはこんな若気の至りではずかぴいこと書いてました

当時の流行をお楽しみください

 

■2005/12/12 (月) ブルースリージャージ伝説

今日も寒かった。
師走の忙しいデスクワークを終えて、
コートを纏い満員電車にて帰る途中に、
小さな広告が目に入った。そこにかかれていた文字は

Don’t Think, Feel !

これを見て、ある思いがよみがえった。

*********

オーストラリアを旅していたときのことだ。

同じころ、ちょうど大陸一周中のある一人のライダーが
カンフーのトレーニングに着る側面に黒いラインが入った黄色いワンピース式のジャージ、
いわゆるブルースリージャージ(当時キルビルジャージとも言っていた)
を日本から持ってきた。

大陸を一周中に、出会った旅人にそのジャージを伝播するという儀礼が一部の旅人の間ではやりはじめてきた。

彼から二代目としてジャージを受け継いだのだが、自分の顔つきはブルースにちっとは似ていたので、ある意味適任だったのかもしれない(笑)

そしてごく一部ではもはや伝説になってしまったが、
パースのクラブにて、みんなで踊りに行ったときのこと。

すっかり調子に乗りまくった私は、考えるな、感じろ!とばかりに
普通の服からジャージに着替えてお立ち台に上がってブルースリーの真似した。

適当にカンフーのポーズを取って奇声をフォーフォーあげていたら・・

みんなバカ受けした。 客層は白人だからウケルのは当然といえば当然か。

やったぜブワチョー!これが東洋の神秘だ!なんて心酔するのもつかの間、

今度は係員が来て、この哀れなブルースリーもどきはお立ち台から引き摺り下ろされたのだった。

ろくに考えず感じるままに行動していたあの日。

そして、そのジャージは今九代目になっているという。広大な南の大陸の何処かで、誰かがきっとそれを着てブルースリーのように熱く奇声を上げているのかもしれない

■2005/12/13 (火) Sydney暴動

昨日はとくに寒かったわい。夜9時にはなんとうっすらと霜が着いていた。こんなに寒いのかと驚いたが、きらきら反射して輝いてきれいだったな。

シドニーにいた二年前は真夏だった。

さて、三浦和良も住むであろうシドニーで、暴動が起こった。これもまた本当に驚いた。

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シドニーで5000人が暴動 白人ら、アラブ系若者襲撃

【シドニー12日共同】シドニー南部の海水浴場と周辺地域で11日、海水浴場監視員2人が4日にレバノン系の若者に襲撃されたことに反発した白人の若者ら約5000人が、アラブ系の若者らを襲撃、救急隊員2人と警官6人を含む計31人が負傷した。
警察当局は反社会行動などの容疑で、16人を逮捕した。携帯電話のメッセージなどを通じ、報復が呼び掛けられていたという。
白人の若者らは「レバノン人は出て行け」などと叫び暴徒化、警察官に向けて投石するなどした。
救急隊員2人は、海水浴場の建物に避難したアラブ系の若者を救出しようとして負傷した。
(共同通信) – 12月12日11時5分更新

http://au.news.yahoo.com/051211/2/x6ab.html

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私はシドニー南部のロックデールRockdaleに半年間住んでいた。
Cityから南に10kmぐらいの住宅街だが、シドニーの北部は高級地で、日本人も多く住んでいるが、その南部は少なくなり、特に南西部郊外では日本人はほとんどいなくなり中国系やベトナム系、アラブ系などが住むようになる。

ロックデールの家から3kmほど東へ行くとBrighton-le-sandsというビーチがあった。
そこにはよく行ったりしたのだが、サーフィンのできる外洋のマンリーやボンダイなどのビーチと違い、南部のビーチは市街地に近く泳ぐには適さない。

だからみんな散歩したり海岸で遊んだりのんびりしたりしているのだが、そこではいつもアラブ系の人たちが大勢海岸でくつろいでいたりした。とはいえど家族でピクニックしたりして、いかにも平和なビーチだった。

私が住んでいたロックデールもアラブレバノン系の店が多かった。でも静かで落ち着いた住宅街だった

 

しかし、アラブ人の問題も多かったのも事実。
西部郊外ではアラブ系のコミュニティが数多く存在し、そこではアラブ人同士のギャングの抗争も多発していた。

礼拝所のモスクにはナチスのハーケンクロイツ(鍵十字)とともにWHITE POWERと書かれた落書きもあったりした。

もちろんこれだけ多種多様な人種が住んでいると、ある程度の衝突は避けられない。
私が住んでいたときも小規模ではあったが、下町の中にある先住民族アボリジニのコミュニティでは、アボリジニvs警察の衝突があった。引き金は警察の誤認逮捕。後日そこへ行くと硝煙の匂いが残っていた。

しかし、今回の大規模な事件は、多民族社会で人種には寛容なシドニーらしからぬ事件だったと思う。

シドニー五輪の頃はひとつになって統制が取れていた気がしたが、時が立ちフランスで暴動が起こると、ついに堪忍袋も爆裂したのだろうか。

■2005/12/15 (木) ちょいとまじめに、死の美学。

元ノーベル平和、文学賞候補が処刑

これは全米で議論されているニュースだが、康夫ちゃんならぬ、シュワちゃん知事(だいじょーV、のね)がギャングの元親玉の恩赦を撤回、死刑判決を下した。

かれが71年に組織したギャングは黒人に対しての人種差別の根強い警察に対しての自警的な目的だったというので、ある意味任侠の精神に近かったもしれない。

しかしそれでは何の解決にならないどころか、ますますストリートギャングの犯罪が膨らんでいくときに、彼は清水の次郎長のように改心し、組織解体への活動を行ってきた。ノーベル賞候補にもなった。当然死刑撤回のデモが行われていた

しかし、死刑が確定し執行前に彼はこう言ったという。
「多くの喜びをもてない人生だったが、心は今幸福で、平和に満ちている」

まるで、北斗の拳でラオウが「我が人生に一片の悔い無し!」と言ったように。

両者とも、常に死を身近に感じ、本当に命がけで生きてきた人間の言った言葉。
せいいっぱい命を使い、燃え尽きる。

私も死ぬときは、「人生とても幸せでした」と言えるような、そんな素晴らしい死に方をしたい。

生の道をまだ進むか、死の道を行くか。
彼は自ら進んで死の道を選んだ。

どちらの道も、最良の方法だと私は確信している。
殺害された被害者や遺族に対して死を持ってつぐなうべきだ。
そして、彼の死が無駄にならないよう、あらためて「生きる」と言うことに関して戒めるべきであろう。

■2005/12/24 香港とタイのクリスマス

全国的に雪が降った。クリスマスはやっぱりホワイトクリスマス。
しかも週末と重なっているので今年は日本にとって例年にない最高のクリスマス日和に違いない。

しかし自分にとってサービス業で昨日も今日も明日も仕事の日々なのでクリスマスもへったくれもない。
まあ、今まで遊んでたからしゃあないか。

去年のクリスマスは香港とタイにいた。
イブまで香港。天気も良く暖かいので人々がうじゃうじゃ。
果てしなく広がる摩天楼には圧巻した。摩天楼の規模はニューヨーク以上だとおもう。
よるになると摩天楼のクリスマスイルミネーションが。たくさんの人々で集まる。便乗している路上のクリスマスグッズ売りも大盛況。
一人で見るにはもったいないね~

とにかく人まみれ。高層建築がひしめき合っているということは、人口密度が極端に高いことなので、人だらけではっきり言って疲れる。自分はとてもこんなところ住めないと思った。

イブの夜、アフロサンタは香港からバンコクに上陸。
同じアジアの大都会とはいえ、物価も安く、人々もせかせかしてなくてどこかのんびり。やっぱタイはいいね~

そのときは安宿がなかったので駅前のホテルに泊まってテレビを見ると、クリスマスのイベントをやっていた。仏教国なのに商業的なクリスマスは日本と同じじゃないか!

バンコクの中心、サヤームスクエアなどではモロにクリスマスチックだけど、白人(ファラン)も避寒で大勢タイに訪れるわけだし、新し物が好きなタイ人にとっては仏もキリストもカンケーないんだろうね。

雪の降らないタイなのに、雪が降ってるシーンを再現したアニメ処理が泣かせる。

あと、こちらにも世界のクリスマスを書いてあるのでよんでね。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/2599/es7.htm

AUS11 シドニーの生活記録 TVも、緊急車両も、シュノーケリングもすごい!
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とゆーことで、Feliz Navidad!!

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